鄧小平時代の科学技術

 鄧小平時代の科学技術政策は、文革の破壊と混乱を立て直すことが第一であった。鄧小平は、科学技術を重視し、四つの近代化を推し進めた。

鄧小平時代
鄧小平 百度HPより引用

文革時代の負の遺産からの脱却

 鄧小平時代の科学技術の特徴の一つ目は、文革時代の負の遺産からの脱却である。

 四人組逮捕直後の1976年12月に、「四人組に反対して迫害を受けた全ての人々の名誉の一律回復」が通達され、でっち上げ・誤審が覆されて冤罪が晴らされた多数の科学者・研究者が教壇や科学研究に戻った。

 中国科学院に併合されていた国家科学技術委員会は、分離独立して業務を再開した。中国科学院では地方に移管された研究機関が再び戻り、また数多くの新しい科学研究機関が設立された。文革中にほとんど活動を停止していた大学などの平常業務への復帰が急ピッチで進んだ。

 とりわけ、文革開始直後に停止された高考の復活は重要である。

 病床にあった郭沫若中国科学院院長は、鄧小平の科学技術再興への動きを「科学の春(科学的春天)」と歓迎した。

科学技術と経済の連携

 鄧小平時代の科学技術の特徴の二つ目は、科学技術と経済の連携である。

 鄧小平が常に強調したのは科学技術を含む四つの近代化であり、そのなかでも科学技術は第一の生産力として最も重視すべきということであった。四つの近代化は、元々周恩来が文革前から強調していたことであったが、鄧小平がこれを引き継ぎ、この言葉に魂を入れたのである。

 四つの近代化と科学技術は第一の生産力というスローガンは、その後一貫して中国の科学技術政策の根幹をなす思想となり、四つの近代化は中国の憲法にも明記されることとなった。

 鄧小平の科学技術に対する考えは、天安門事件やその後の西側諸国の経済制裁を経て生じた陳雲などの保守派との路線対立でも全く動じることがなく、南巡講話により次の世代に引き継がれていった。

西側諸国との国際交流の再開

 鄧小平時代の科学技術の特徴の三つ目は、西側諸国との国際交流の再開である。

 新中国建国後に東側陣営に属したため、科学技術の国際協力もソ連を中心とした東側諸国との交流が中心であったが、スターリン批判後に中ソ対立が生じソ連との協力が滞り、文革中を含めて閉鎖的な状況に置かれた。

 転機となったのは、1972年のニクソン米国大統領訪中や田中角栄日本国首相訪中であったが、文革中は四人組のために交流は本格化しなかった。

 鄧小平が実権を握ると大きく変化し、米国や日本などの西側諸国との交流が再開され、多くの有為な学生や研究者が米国、欧州、日本などに留学生として派遣された

競争的な資金の導入

 鄧小平時代の科学技術の特徴の四つ目は、様々なプロジェクトや競争的な資金の導入である。

 文革前は、平等主義の徹底から国立の研究機関や大学では研究者数に応じて平等に研究費を配分することが中心であったが、これを米国などの例に倣い意欲のある優れた研究者に研究費を重点配分していく制度を導入し、また国として重要なプロジェクトに重点配分するシステムを作り上げていった。

 とりわけ、米国科学財団(NSF)を模して国務院内の組織として設立された国家自然科学基金委員会(NSFC)が重要である。

地域科学技術の振興

 鄧小平時代の科学技術の特徴の五つ目は、地域科学技術の振興である。

 鄧小平は、地域の経済発展にも目を配り深圳などの地域を経済特区(1980年)、経済技術開発区(1984年)として発展を促したが、この政策を科学技術を用いて深化させるため、1988年に国家ハイテク産業開発区を導入している。北京の中関村はその一例である。

 この時代に始まった地域科学技術の振興は、現在においても地方科学技術庁や地方科学技術協会がその役割を担っており、それぞれの地方独自の活動を展開している。

鄧小平時代の科学技術成果

 この時期は文革の後遺症からの回復期であり、優れた研究者らは続々と米国などで研究にいそしみ力を蓄えていた。

 したがって、それほど大きな成果は見られないが、両弾一星政策の完成を受けて、これを民生化したものが重要である。原子力では、大型国産原子力発電所である秦山原子力発電所が浙江省嘉興市に1985年に建設が開始され、1991年12月に試運転を開始した。また東方紅一号衛星を打ち上げたロケットは、その後長征シリーズとして民生用に開発され、通信衛星や地球観測衛星、気象衛星の打ち上げが実施されていった。
 スーパーコンピュータ開発でも成果が上がり、1983年国防科学技術大学が開発した「銀河」が毎秒一億回の計算速度を達成して、米国や日本に続いた。同大学はさらに1992年に「銀河2号」を完成させ、毎秒10億回の計算速度を達成した。
 1988年には、中国科学院高エネルギー物理研究所が電子陽電子衝突加速器(BEPC)が運転を開始した。この加速器は、鄧小平が文革後に建設を承認し、米国のスタンフォード大学との協力の下に建設が進められたものである。

 次表は改革開放直後と南巡講話後の科学論文数と世界順位を、米国や日本と比較したものである。文化大革命の影響を受けて1981年では世界24位と振るわず、米国の約80分の1、日本の14分の1に過ぎなかった。南巡講和後であっても14位で、米国の約20分の1,日本の約5分の1に過ぎず、この時期は次の時代の発展に向けての準備期間であった。

図表 主要国の科学技術論文数の比較(単年、整数カウント法)

国名1981年の論文数順位1992年の論文数順位
中国1,769249,11914
米国139,7571191,9131
日本25,173446,5582
(出典)文部科学省科学技術・学術政策研究所「科学研究のベンチマーキング2019」

参考資料

・文部科学省科学技術・学術政策研究所「科学研究のベンチマーキング2019」https://www.nistep.go.jp/archives/41356