両弾一星の完成(1970年)

 両弾一星の完成は文革中の1970年であり、この年に中国は初めての人工衛星「東方紅1号」の打ち上げに成功した。

 文革では既存の教育や研究組織が批判と破壊の対象となったため、周恩来首相は両弾一星プロジェクトを担当する研究所の資材や人員を、革命派の比較的手が出しにくい人民解放軍に移転させた。しかし、国防系の科学研究部門もほどなく政治運動に巻き込まれ、これら研究所でも文革の混乱は免れ得なかった。

 また周恩来首相は、紅衛兵らの暴力から知識人らを守るため、文革初期の1966年8月に「保護すべき幹部リスト:一份应予保护的干部名单」を作成し、毛沢東の同意を得て保護に努めた。しかし、全てを守ることができたわけではなく、例えば有名な例では核兵器の開発を指揮していた銭三強も、反動学術権威というレッテルが貼られて迫害を受けた後、妻でやはり物理学者であった何沢慧かたくけいとともに陝西省に下放されて農作業に従事した。

 このように、両弾一星の開発にも文革の影響はあったが、周恩来首相の度重なる庇護の下で着実に進められ、1967年6月には、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の水爆実験に成功した。

 その後、両弾一星の一星の部分、つまり人工衛星の打ち上げについても着実に進められた。
 人類初の人工衛星は1957年にソ連が打ち上げたスプートニク1号であり、4か月後には米国がエクスプローラー1号が打ち上げていた。さらに1965年にはフランスがアルジェリアのアマギール射場からアステリックスの打ち上げに成功した。
 中国は、ソ連からの技術をベースとして独自開発を加えたミサイル技術を発展させ、1970年4月に長征1号ロケットにより「東方紅1号」の打ち上げに成功した。これはソ連、米国、フランス、日本についで世界で5番目の人工衛星打ち上げ国であり、これにより両弾一星は完成した。この成功により中国は、軍事技術を中心としたミサイルやロケット開発から、長征ロケットシリーズをベースとした民生用の宇宙開発にも力を入れていくことになった。

参考資料

・百度HP 『两弹一星