はじめに

 呉健雄(吴健雄、1912年~1997年)は、楊振寧李政道が提案した素粒子理論の仮説に関し、実証実験のチームを立ち上げて仮説の実証に成功し、ノーベル賞受賞に大きな貢献をした在米中国系女性科学者である。
 残念ながら両名と同時受賞とはならなかったが、その後も物理学の発展に寄与し、また新中国の科学技術振興に貢献しており、これらの功績から「中国のキュリー夫人」とも呼ばれている。

呉健雄の写真
呉健雄

生い立ち

 呉健雄(吴健雄、Chien-Shiung Wu)は、辛亥革命が成功した翌年の1912年に、江蘇省蘇州市大倉で教育者の家庭に生まれた。父の呉仲裔(ごちゅうえい)は男女平等主義の支持者で、明徳女子職業補習学校(現在の大倉市明徳高級学校)を設立した人物である。

 呉健雄と聞くと豪快な男性をイメージするが、これは中国人の名前の付け方と男女平等主義者の父親の考えによるものである。中国人の伝統的な名前の付け方は、宗族の世代ごとに共通する漢字(輩行字)をまず付け、その後に一人一人に特有の漢字を付ける。
 呉健雄の場合、「健」は輩行字で4人の兄弟(呉健雄には兄と2人の弟がいた)全てに付け、「雄」は父親が好きな言葉であった「英雄豪杰(英雄豪傑)」を4人の兄弟に順番に付けた2番目の字である。当時は男尊女卑の風潮が厳しく、女性には輩行字を付けない場合も多かったが、男女平等の信奉者であった父親の考えに基づいて、他の兄弟と同様の名前の付け方をしたのである。

国内での教育と就職、米国への留学

 初等教育として、父親の呉仲裔の設立した明徳女子職業補習学校などで学んだ後、18歳となった1930年にやはり江蘇省の南京にあった国立中央大学(現在の南京大学)に入学し数学を専攻したが、後に物理学を専攻し1934年に同大学から学士号を取得した。
 卒業後は、浙江省杭州にある浙江大学の助手に採用され、その後中央研究院(現在の中国科学院の前身の一つ)に移った。

 中央研究院で米国のミシガン大学を卒業した先輩に勧められ、同大学に入学願いを出したところ許可されたため、伯父の資金援助を受けて1936年24歳の時に米国に渡った。
 米国の西海岸に到着した段階で、呉健雄はミシガン大学に入学するのをやめてカリフォルニア大学のバークレー校に入学した。ミシガン大学では、女子学生は正門から入れないとのうわさを聞いたからだと言われている。

 バークレー校では、1939年に加速器の研究でノーベル物理学賞を受賞したアーネスト・ローレンスなどに師事し、1940年に放射線の研究により博士号を取得して、引き続き同大学でポスドク研究を続けた。

夫は政治家・袁世凱の孫

 呉健雄は、カリフォルニア大学バークレー校に在学中に、やはり物理学を専攻する袁家(えんかりゅう)と知り合い、博士号取得の2年後の1942年に結婚した。

呉健雄の夫・袁家騮の写真
呉健雄の夫・袁家騮 百度HPより引用

 袁家騮は、呉健雄と同年の1912年に河南省南陽に生まれている。袁家騮の父親は袁克文であり、清末から中華民国初期に活躍した政治家・袁世凱の次男である。袁克文は中国の古典文学に堪能であり、書と水墨画の達人といういわゆる文人であった。
 袁家騮はこの袁克文の三男であり、1934年に北京にあったキリスト教系の大学・燕京大学で修士号を取得の後、1936年に米国に留学してカリフォルニア工科大学大学院に入学し、1940年に同大学から物理学の研究で博士号を取得していた。

 2人の結婚式は呉健雄が30歳となる誕生日の前日に、カリフォルニア工科大学の創立者の一人で電気素量や光電効果の研究などでノーベル物理学賞を受賞したロバート・ミリカン博士の自宅で行われた。中国系の友人が大勢参加し、当時同大学に在籍していた銭学森博士も2人を祝福している。

マンハッタン計画などに参画

 結婚後、2人はカリフォルニアから東海岸に移動した。呉健雄は、マサチューセッツ州のスミスカレッジで教鞭を執った後、ニュージャージー州にあるプリンストン大学に移った。1944年には、コロンビア大学代用合金研究所で行われていた原爆製造計画であるマンハッタン・プロジェクトの一つに参加した。

 呉健雄は、第二次世界大戦終了後にコロンビア大学研究教授、1949年にブルックヘーブン国立研究所研究員として、素粒子や放射線の研究を続けた。

 1952年にはコロンビア大学に戻り准教授となり、1958年に正教授となった。

 また、1954年には、米国国籍を獲得している。

ウーの実験で中国系初のノーベル賞受賞をサポート

 呉健雄は、シカゴ大学で博士号を取得の後1953年にコロンビア大学の准教授となった李政道と知り合う。

 1956年に李政道は、フェルミ門下の同僚であった楊振寧とともに、素粒子間の弱い相互作用においてはパリティ(対称性)が保存されないとの理論を提唱し、「フィジカル・レビュー」誌に発表した。

 しかし、この理論は当時の素粒子物理学の常識を大きく覆すものであったため直ちには受け入れられず、李政道は呉健雄に理論の検証実験を提案する。
 呉健雄は、国立標準局(現在の国立標準技術研究所:NIST)の研究者と協力して、同局の低温実験室の機器を用いて実証実験を実施した。実験は、放射性のコバルト60を絶対零度付近まで冷却し、コバルト60のベータ崩壊を測定するものであった。この実験結果は、李政道らの仮説通りの結果となり、パリティの対称性の破れが実証された。
 この実験は、呉健雄の英語名(Chien-Shiung Wu)にちなんでウーの実験(Wu experiment)と呼ばれている。

 この功績により、李政道と楊振寧の2人は、翌1957年のノーベル物理学賞を共同受賞した。
 しかし、理論の実証に大きな貢献をした呉健雄にはノーベル賞受賞の栄誉は与えられなかった。当時関係者からは、女性差別のせいだとの批判が強く起こっている。

新中国との関係

 ノーベル賞受賞とはならなかったが、呉健雄はその後も研究を続行し、鎌状赤血球症の原因となるヘモグロビンの変形の研究などへと研究分野を広げていった。

 1975年には、女性として初めて米国物理学会の会長に選出されている。

 1972年に米国ニクソン大統領が訪中し、米国と中国の交流が復活したことを受けて、1973年に呉健雄は数十年ぶりとなる中国本土への訪問を果たした。父は1959年に、母は1962年に亡くなっていたが、そのいずれの葬儀にも呉健雄は参列できなかった。さらに文化大革命の激動の中で、これら家族の墓は破壊されていた。滞在中呉健雄は周恩来首相に面会したが、周首相はこの墓の破壊を詫びたという。

 以降、呉健雄は中国を何度か訪問し、中国の科学技術発展に尽力した。特に力を注いだのが若い研究者の育成で、南京大学の「呉健雄=袁家騮奨学金」(1986年)、明徳高級学校の「呉健雄奨学金(1994年)」、「呉健雄学術基金会(1995年)」などに関与している。

 これらの功績により1994年に、呉健雄は中国科学院の外国籍院士に選出されている。

死後、故郷に戻る

 1997年、呉健雄は心臓発作のためニューヨークで死去した。享年84歳であった。

 遺体は荼毘に付され、その遺灰は父親の呉仲裔が設立し自らも学んだ故郷江蘇省蘇州市大倉の明徳高級学校の敷地に埋葬された。

 夫の袁家騮は、2003年に享年90歳で北京で病没したが、彼の遺灰も妻の呉健雄と並んで明徳高級学校の敷地に埋葬された。

参考資料

・張懐亮『呉健雄伝(中国語)』 南京大学出版社 2002年
・National Park Service HP "Dr. Chien-Shiung Wu, The First Lady of Physics"
・Lee, T. D.;Yang, C. N.  "Question of Parity Conservation in Weak Interactions" Physical Review. 104 (1): 254–258. 1956年
・Hudson, R. P. “Reversal of the Parity Conservation Law in Nuclear Physics”  NIST Special Publication 958.  National Institute of Standards and Technology. 2001年
・岡本隆司『袁世凱―現代中国の出発 』 岩波書店(岩波新書) 2015年