四つの近代化の開始(1978年)
四つの近代化は、文革後に復活した鄧小平により実施された政策であり、これにより科学技術の推進が国家の最優先事項の一つとなった。
度々提唱された四つの近代化
四つの近代化(四个现代化)は、中華人民共和国の大きな国家目標であり、転換点に当たる時期に時の指導者が度々提唱している。
四つの近代化が最初に提唱されたのは建国直前の1949年9月で、中国人民政治協議会議の第1回総会で暫定憲法の役割を果たす「共同綱領」が採択された。この共同綱領第43条には、「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める。科学の発見と発明を奨励し、科学的知識を普及させる」と規定されている。
中華人民共和国建国後の1954年に開催された全国人民代表大会で、周恩来首相は政府活動報告を行い、経済の後進性と貧困を排除し革命を達成させるために、「工業、農業、交通輸送業、国防に関する四つの近代化」を提唱した。また1958年に開催された中国共産党の宣伝工作会議で、「産業、農業と科学・文化の近代化」を提唱した。しかし、これらの提案は、大躍進政策などの政治的経済的な混迷のため実施されることはなかった。
大躍進政策の失敗後に劉少奇や鄧小平が政治的経済的な調整を進め、1964年に開催された全国人民代表大会で周恩来首相は政府活動報告を行い、「農業、産業、国防、科学技術の近代化を完全に実現し、中国の経済を世界の先頭に立たせ、強力な社会主義国を構築する」という四つの近代化路線を再度主張した。しかしこの場合も、1966年から開始された文化大革命の影響を受けて、実施されることはなかった。
文革中の林彪事件後、鄧小平を復活させるなど政治的な基盤を強化した周恩来首相は、1975年の全国人民代表大会で政府活動報告を行い、「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」と提唱した。しかしこれも、四人組の反撃により実施されることはなかった。
鄧小平による四つの近代化政策の実施
四人組逮捕により文革が終了し、1977年7月に復活した鄧小平副首相は、翌1978年3月に北京で開催された全国科学大会の開幕式に出席し、演説を行った。この演説で、「農業、工業、国防、科学技術の近代化を実現し、我が国を近代的強国とすることは、我が国人民の歴史的使命である」、「四つの近代化は科学技術の近代化である。近代的な科学技術がなければ、農業、工業、国防を近代的に建設することができない。科学技術の高度な発展なくしては、国民経済の高度成長はありえない」とし、四つの近代化を国の中心政策とすることを強調した。
その後、華国鋒らのグループと鄧小平や陳雲らとの間で激しい政治路線闘争が行われ、1978年12月の中国共産党第11期三中全会において鄧小平のイニシアティブが確立した。翌1979年1月、鄧小平は中国共産党中央委員会の幹部を招集し、「経済基礎が弱く、人口が多く、耕地が少ない中国が近代化するためには、直ちにかつ一心不乱に四つの近代化に取り組む必要がある」と指摘した。そして中国経済を「小康」にすることが近代化の目標であるとし、「中国のGNPを1980年の2倍にする、20世紀末までにGNPをさらに2倍にし、国民生活をある程度裕福な水準に高める、21世紀半ばまでにGNPをさらに4倍にし、中進国の水準にする」とした。「小康」の目標はその後、1980年11月に開催された第五期人民代表大会第四回会議で確認された。
憲法を改正して条文化
四つの近代化は、その後1982年12月に制定された新憲法(82憲法:八二宪法)で国家の大目標として条文化された。
具体的には、82憲法の序言に以下の通り記述されている。「中国の各民族と人民は、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の指導の下で、人民民主独裁を堅持し、社会主義の道を堅持し、社会主義の諸制度を絶えず充実させ、社会主義民主を発展させ、社会主義法制度を健全化し、自力更生を健全化し、刻苦奮闘し、工業、農業、国防、科学技術を近代化して、我が国を高度に文明的で高度に民主的な社会主義国家として建設する」。
82憲法は、その後数度にわたり修正されているが、この四つの近代化の記述は変更されていない。
参考資料
・中国人民政治协商会议全国委员会HP 『中华人民政治协商会议共同纲领』
・百度HP 『1954年国务院政府工作报告』
・百度HP 『1964年国务院政府工作报告』
・百度HP 『1975年国务院政府工作报告』
・捜狐新聞HP 「邓小平在全国科学大会开幕式上的讲话」
・中国人代網HP 『中华人民共和国宪法(1982年)』