京師大学堂の設置(1898年)

 京師大学堂(京师大学堂)は、日清戦争の敗北を受け光緒帝が主導した戊戌の変法で、1898年に設置された高等教育機関である。辛亥革命後に国立北京大学と改称され、現在の北京大学につながっている。

光緒帝らによる戊戌の変法

 1894年から1895年の日清戦争での敗北を受けて、清朝政府は巨額の賠償支払いを日本に約束させられるとともに、中国大陸では西欧列強による一部植民地化が進展した。

 この状況を深く憂えた清の光緒帝は、康有為、梁啓超らの政治改革運動を支持し、1898年4月に戊戌の変法を開始した。ところが、戊戌の変法があまりにも急激な改革であったため、事の推移を静観していた実力者西太后がクーデターを決行し、光緒帝は監禁されて実権を失い、変法派の主要人物は処刑されたり亡命したりして、変法運動は完全に挫折した。

戊戌の変法で唯一残った成果・京師大学堂

 挫折にともない戊戌の変法はほとんど無となってしまったが、その改革の中で唯一残ったのが「京師大学堂」の設立で、これが北京大学の前身である。

京師大学堂の額
京師大学堂の額 百度HPより引用

 京師大学堂は1898年に設置され、清朝の官吏養成学校の色彩が強かった。京師大学堂は設立に際して洋務運動で設立された京師同文館を吸収している。京師大学堂は1900年の義和団事件で閉校されたが、1902年12月に授業を再開し、1904年には優秀な卒業生47名を外国に留学させるまでに回復した。

 辛亥革命の前年である1910年には、経学、政法、文学、医科、農、工など8つの学部を持ち、約400名の学生が学ぶ規模となっていた。辛亥革命後の1912年、京師大学堂は「国立北京大学」に改称された。

 規模が大きくなるに従い、より大きな校舎が必要となったため、天安門広場の北にある景山公園東側の位置する沙灘しゃーたんに新たな校舎を建設した。この新たな校舎は1918年に完成した紅楼ほんろうであり、現在も記念館として残存している。

京師大学堂と紅楼
沙灘にある紅楼

高等教育機関が中国各地に開設

 京師大学堂の設置と前後して、現在の有力大学の前身が相次いで設立されている。西欧の軍事的な圧力に遭遇して、長い間続いた官吏選抜のための科挙による人材育成システムでは難局に対応できないとの見方が全国に拡がったからであろう。

 具体的には、自強学堂(現武漢大学、1893年)、四川中西学堂(現四川大学、1896年)、南洋公学(現上海交通大学および西安交通大学、1896年)、求是書院(現浙江大学、1897年)、三江師範学堂(現南京大学、1902年)、復旦公学(現復旦大学、1905年)等である。

日本への留学の拡大

 なお日清戦争の敗北は、留学生政策にも大きな影響を及ぼした。従来学ぶべきは西欧や米国であったが、近隣であり西洋文明を短期間に習得して強国化した日本にも学ぶべきであるとの認識が日清戦争敗北後に広まった。また、洋務運動の留学生派遣は外国語と軍事技術の習得が中心であったが、日本に倣い工業・農業・商業や政治・法制度など広い範囲で留学生を派遣すべきであるとの考え方に変換していった。このため20世紀末には日本に留学する中国人学生が急激に増加し、1905年頃には1万人に達したという。

参考資料

・宝鎖『清末中国の技術政策思想~西洋軍事技術の受容と変遷』臨川出版 2020年
・叢小榕『太平天国を討った文臣 曾国藩 (日本語)』総合法令、2000年
・百度HP 京师大学堂