はじめに~宇宙とは

  数千年の悠久なる歴史を有する中国は、宇宙に関しても様々な発見や発明を行っている。具体的には、ロケットやミサイルの原型となる武器の開発や天文学上の発見などであるが、ここでは近代の宇宙開発の概略を述べる。

  天文学的観点での「宇宙」はすべての天体・空間を含む領域をいうが、これから述べていく宇宙開発における「宇宙」とは、地球の大気圏外の空間全体であって高度 100キロメートル以上を便宜的に指すことにする。ちなみに、国際線で我々を乗せて飛ぶ飛行機の高度は約10キロメートル(1万メートル)であり、高度100キロメートルはその10倍の高さとなる。

1.両弾一星政策とその完成

 近代における中国の宇宙開発を語る場合、中国が国家を挙げて実施した「両弾一星政策」を除外するわけにはいかない。

(1)新中国の建国と朝鮮戦争

 1949年10月、毛沢東は北京の天安門広場に集まった人民を前に中華人民共和国の発足を高らかに宣言したが、そのわずか9か月後の1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。戦争開始前に中国を訪問した北朝鮮の指導者金日成に対し、北朝鮮による朝鮮半島南半部への侵攻を中国が援助すると約束していたため、中国は金日成からの部隊派遣要請を受け同年10月に「中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)」を派遣した。

 戦況は一進一退が続き、1951年の初め頃にはこう着状態に陥った。このこう着状態を脱却するため、北朝鮮および中国人民志願軍と戦っていた国連軍司令官であるダグラス・マッカーサーは、中国本土の空爆や原爆の使用を米国大統領のトルーマンに進言した。戦線が中国に拡大することによってソ連を刺激し、結果として第三次世界大戦となる可能性を恐れたトルーマン大統領は、1951年4月にマッカーサーを解任した。

 その後、休戦協定により停戦を行うための協議が進められ、1953年7月に38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は休戦となった。この戦争による中国軍の人的損害は戦死者数十万人といわれるほど多大で、毛沢東の長男である毛岸英も戦死した。

(2)両弾一星政策の開始

 朝鮮戦争中に、マッカーサー国連軍総司令官が核兵器の使用をトルーマン大統領に進言したことを、毛沢東は非常に深刻に受け止めた。さらに、米国が最初に原子爆弾を開発・使用した後、ソ連が1949年に、英国が1952年に核実験を成功させており、第二次世界大戦の戦勝国が次々と核兵器国となっていた。このため、毛沢東は中国の安全保障には核抑止力が重要であり、また中国が第二次大戦の戦勝国としての立場を強化していくためにも核兵器の開発は不可欠であると考えるに至った。

 毛沢東は1955年頃、核兵器とそれに関連するミサイルを含めた戦略兵器を関係者に命じたとされ、この政策がいわゆる「両弾一星」政策であり、両弾とは水爆を含む核兵器および弾道ミサイルを指し、一星とは人工衛星を指すといわれている。

 毛沢東の指示は国務院や人民解放軍の首脳に重く受け止められ、政府・軍一体となって両弾一星政策が推し進めれられたが、その全体指揮を執ったのが国務院副総理兼国家科学技術委員会主任で、かつ国防科学技術委員会主任であった聂荣臻といわれており、彼は人民解放軍十大元帥の一人である。

(3)ソ連からの援助とその中断

 1950年2月に締結された中ソ友好同盟相互援助条約により、1950年代の中ソ関係は比較的良好であり、中国は両弾一星実現のためソ連からの援助を最大限に活用した。ミサイル開発においてそれが特に顕著であり、ソ連は中国への技術提供に協力的であった。
 1957年10月に、中国はソ連と中ソ防衛技術協定を結んでミサイル開発を進め、ソ連から供与されたR-2ミサイルをリバースエンジニアリングして複製することにより、1960年に初めてのミサイルを打ち上げた。このミサイルは、「東風1号(DF-1)」と名付けられたが、射程距離が短く運搬能力も原子爆弾を搭載するには小さすぎたため、新たなミサイルの開発に着手した。

 1956年にフルシチョフがスターリン批判を開始すると、毛沢東はソ連から徐々に距離を置き始め、友好的であった中ソ関係は対立状態となり、1960年にはソ連の技術的援助は無くなった。

(4)両弾一星の完成

 1955年以降中国は、銭三強銭学森が率いる国防部第五研究所などを中心として、ミサイル開発や原子爆弾の開発を独力で進め、1964年10月、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の核実験に成功した。さらに同月には核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが酒泉衛星発射センターより打ち上げられ、20キロトンの核弾頭が新疆ウイグル自治区ロプノール上空で爆発した。これによって、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。

 続いて目指したのは、両弾一星の一星、つまり人工衛星の開発である。人類初の人工衛星は1957年にソ連が打ち上げたスプートニク1号であり、4ヶ月後には米国陸軍によりエクスプローラー1号が打ち上げられた。さらに1965年フランスがアルジェリアのアマギール射場からアステリックスの打ち上げに成功し、日本も東京大学宇宙航空研究所が4回の失敗の後1970年2月に鹿児島県内之浦の射場からおおすみの打ち上げに成功した。

 中国は、ソ連からの技術をベースとして独自開発を加えたミサイル技術を発展させ、1970年4月に長征1号ロケットにより、東方紅1号の打ち上げに成功した。これはソ連、米国、フランス、日本についで世界で5番目の人工衛星打ち上げ国であり、これにより両弾一星は完成した。

2.宇宙開発の本格的な開始

(1)長征ロケットのシリーズ化と各種衛星の開発

 長征1号ロケットによる東方紅1号衛星の打ち上げ成功により、中国の宇宙開発関係者の士気が高まり、1970年代には軍事的な目的だけではなく、民生用の宇宙利用を目指した努力が続けられた。

 とりわけ文化大革命が終了した1976年以降は、長征ロケットの開発がシリーズ的に進められ、民生利用のための人工衛星の開発と打ち上げが活発化し、海外の衛星も打ち上げるようになった。また、ロケットの発射場の整備も進められ、西昌衛星発射センターや太原衛星発射センターが整備されていった。

 人工衛星の民生利用としては通信目的が最も重要であり、1984年に通信技術の試験衛星である東方紅2号の打ち上げに成功し、続いて静止通信衛星の開発・打ち上げにも成功している。また地球観測衛星の分野でも、気象観測、大気観測、海洋観測、陸域観測等の衛星の開発・打ち上げに成功している。さらに、米国のGPS衛星群に対抗して、中国独自の航行測位衛星群である「北斗」開発を2000年以降進めている。

(2)有人宇宙飛行計画「神舟」

 中国が、有人宇宙飛行に向けて動き出したのは、1976年の文革終了後である。1986年に策定されたハイテク科学技術開発の国家計画である「863計画」の中で、有人宇宙飛行が取り上げられ、以降人民解放軍が中心となり関係部局の協力を受けて検討が行われてきた。

 1992年4月に、中国独自の有人宇宙計画が正式にスタートした。1999年11月、中国建国50周年に合わせて、神舟1号の打ち上げに成功し、その後2号から4号まで無人での実験計画を着実にこなした後、2003年10月15日、宇宙飛行士楊利偉を乗せた神舟5号を打ち上げ、中国は世界で3番目に有人宇宙飛行打ち上げに成功した国となった。

 その後、2021年6月までに神舟6号から15号まで10回の実験が積み重ねられ、2011年に無人の宇宙ステーション実証機天宮1号とのドッキング実験のため無人で打ち上げられた神舟8号以外は、有人で打ち上げられた。これまでに11名の宇宙飛行士が誕生しており、そのうち2名が女性である。

(3)独自の宇宙ステーション「天宮」の建設へ

 中国は、かつての米国スカイラブ計画、ソ連サリュート計画と同様に、中国独自の宇宙ステーション「天宮」の保有を目指している。宇宙ステーションの建設・運用のためには、大型打ち上げロケットの開発、宇宙船同士のランデブー・ドッキング技術、長期運用可能な生命維持システム、そして物資の補給船といった技術が不可欠である。

 2011年9月、初の宇宙ステーション実験機「天宮1号」が、ドッキング技術の習得を目的として打ち上げられた。続いて、2016年9月に「天宮2号」が宇宙実験室のひな形として打ち上げに成功した。さらに、2017年4月には、無人補給船「天舟」の打ち上げにも成功している。

 これとは別に、宇宙ステーション建設に不可欠な大型ロケット「長征5号」の開発を進め、2016年にはその初号機の打ち上げに成功している。

 中国は、これらの技術と経験の蓄積を踏まえ、旧ソ連のミールに匹敵するサイズの宇宙ステーション「天宮」の建設を進めてきた。2022年11月に完成が公表された。現在の構想では、コアモジュール「天和」および2つの実験モジュール「問天」と「巡天」から構成され、地上との間で有人宇宙船「神舟」と無人補給船「天舟」が往き来することになっている。

(4)月探査などの宇宙科学への挑戦

 中国の宇宙開発は、初期の軍事用の開発から始まり、以降通信、気象、地球観測などの民生的な目的でも進められてきた。その一方、宇宙探査などの科学的な目的の開発は、欧米やソ連(現ロシア)、日本などと比較して遅れている面が多かったが、近年大きく変化しつつある。

 中国は、2007年10月に月探査機「嫦娥1号」を打ち上げ、11月に月周回軌道に投入し月面の観測を実施した。2010年10月に「嫦娥2号」を打ち上げ、さらに2013年12月に「嫦娥3号」を打ち上げた。3号は、月周回機である1号、2号と違い、月面に着陸することを目的としたものであり、12月には軟着陸に成功し、米国、ソ連に次ぐ国となった。無人探査車「玉兎」も月面に降ろされ、走行実験が行われた。嫦娥計画は今後も続けられ、月の裏側への着陸などの試みを経て、月面有人探査も検討している。

 中国では、このほかにも宇宙空間を用いた最先端の科学実験も行われている。特に、中国が世界最先端をほこる量子通信に関し、地上での実験を踏まえて、宇宙と地上での実験を行うため、2016年に量子通信衛星「墨子」を打ち上げている。

3.打ち上げの失敗と衛星破壊実験

 中国においても宇宙開発がすべてで順調であったわけではない。1995年1月に西昌衛星発射センターから打ち上げられた長征2E型ロケットは、打ち上げ直後に爆発し、複数の市民が死亡したといわれている。また、1996年2月には、やはり西昌衛星発射センターから打ち上げられた長征3号Bロケットは、ロケットが突然進路から大きく外れ、打ち上げから22秒後に発射台から約2キロメートル離れた山村に突っ込み、民家が破壊され複数の市民が死亡したといわれている。
 ただしその後のロケット打ち上げは順調であり、2009年にロケット3段目の不具合で人工衛星が所定の軌道に投入できなかった事故が発生するまで、中国のロケットは75回連続して打ち上げに成功している。

 このような事故が発生する原因は、中国のロケット打ち上げ射場が安全保障的な観点から海岸近くではなく内陸部に立地していることにある。しかし安全保障の環境が変化したため、中国でも南部海南島の海岸線に位置する文昌航天発射場が建設可能となり、2016年から運用が始まっている。したがって、この文昌発射場の運用が本格化すれば、近隣住民を巻き込む恐れは大幅に低減すると考えられる。

 一方、中国は2007年1月、弾道ミサイルを転用した固体ロケットを用い、同国の老朽化した気象衛星(風雲1号C型)をターゲットとして、衛星破壊攻撃(ASAT)の実験を行った。ロケットは西昌宇宙センターから打ち上げられ、ターゲット衛星を破壊した。米国、ソ連とも、過去には同様の実験を行っていたが、スペースデブリの危険性が認知されるようになって以降、20年以上この種の破壊実験を行っていなかった。
 この実験により多数のデブリが発生したため、有人宇宙開発の新たな懸念となる可能性があるとして、欧米諸国から中国に対し抗議がなされた。この抗議を受けて中国は、デブリが発生する実験を自粛し、低高度でデブリが発生しない形での実験や、衛星を破壊せずに無力化する実験などに注力しているといわれている。