洋務運動(1861年~)

 洋務運動は、アヘン戦争などで科学技術力の後れを自覚した清朝政府が実施した西洋化政策である。「中体西用」をスローガンとしたが、中途半端なものとなり、清朝を立て直すことは出来なかった。

洋務運動開始の経緯

 アヘン戦争やアロー号事件での敗北、さらには太平天国の乱鎮圧の力不足などを体験した清は、西欧近代文明を導入して国力増強を目指す「洋務運動」を開始した。1861年1月に恭親王奕訢えききんが洋務運動の開始を宣言し、高級官僚であった曽国藩・李鴻章らが推進者であった。

洋務運動を主導した恭親王奕訢
洋務運動を主導した恭親王奕訢 百度HPより引用

 恭親王奕訢は道光帝(在位1820年~1850年)の第6子で、次代の咸豊帝(在位1850年~1861年)は兄であり、次々代の同治帝(1861年~1875年)の叔父に当たる清朝の実力者であった。また曾国藩・李鴻章は、太平天国の乱平定に尽力し清朝の立て直し日奔走した漢人の政治家・軍人である。

 洋務運動は「中体西用」とするスローガンが有名であり、中国の儒教を中心とする伝統的な学問や制度を主体(中体)として、富国強兵の手段として西洋の技術文明を利用すべき(西用)との主張である。

対外体制整備と外国語習得

 洋務運動の一つの柱は、対外関係を扱うための体制整備と外国語の習得である。それまでの中国は華夷秩序の考え方で対外関係を処理しており、中国以外の国は「夷狄」であり夷狄との事務処理は「夷務」と称され、対等な外交事務を正式に行う役所は存在していなかった。

 しかし、アロー戦争の敗北により主権国家体制に組み込まれたことで、外交を管轄する総理各国事務衙門(総理衙門)を設置し、「夷務」という表現も「洋務」と改めた。

 また外国語に堪能な人材育成のための学校として、京師同文館、上海広方言館、広州同文館を設立した。

軍備の増強

 洋務運動のもう一つの柱は、弱体な清の軍隊の装備を充実させ、訓練などを通じて強兵とすることである。このため、大量の銃砲や軍艦を西欧から輸入するとともに、これらの近代軍備を自前で整備するため武器製造廠や造船廠を各地に設置した。また、西欧風の軍備を整えた軍隊の訓練を行うための学校も新設した。

 これら2つの柱に付随して、優れた若者を欧米に派遣し、言語や技術などを習得しようとする試みも実施された。

洋務運動に対する現在の評価

 現代中国では、この洋務運動に対する見方は非常に厳しい。とりわけ日清戦争の黄海海戦や威海衛の戦いにおいて、洋務運動の華ともいうべき北洋艦隊が日本の連合艦隊に惨敗したことから、技術的な面のみを取り込んで旧弊な政治制度・軍制を守ろうとし、合理主義などの西欧流の近代思想を取り込むことに失敗したと評価される。

 ただ、洋務運動により軍事、工業、教育、通信などの整備が進み、中国の近代科学の礎の一部が構築されたことは紛れもない。

参考資料

・宝鎖『清末中国の技術政策思想~西洋軍事技術の受容と変遷』臨川出版 2020年
・叢小榕『太平天国を討った文臣 曾国藩 (日本語)』総合法令、2000年
・趣历史网HP 洋务运动的背景 晚清洋务运动是怎么兴起的 http://www.qulishi.com/huati/yangwuyundong/