1. 日清戦争敗北前後の高等教育機関設立

 日清戦争での敗北を受け、清の光緒帝は1898年4月に戊戌の変法を開始したが、西太后がクーデターを決行し、変法運動は完全に挫折した。改革の中で唯一残ったのが「京師大学堂」の設立で、これが北京大学の前身である。

 戊戌の変法と前後して、現在の有力大学の前身が相次いで設立されている。具体的には、自強学堂(現武漢大学、1893年)、四川中西学堂(現四川大学、1896年)、南洋公学(現上海交通大学及び西安交通大学、1896年)、求是書院(現浙江大学、1897年)、三江師範学堂(現南京大学、1902年)、復旦公学(現復旦大学、1905年)等である。

2. 庚款留学生制度と清華学堂設立

 1900年の義和団事件の敗北後、北京議定書で清朝政府は多大な賠償金の支払いを約束させられた。この賠償金の支払いが清朝や人民を苦しめたため、米国は条件付きで残りの賠償金を中国に返還することとした。その条件というのが、返還される賠償金を中国人学生の米国への留学費用に充てることであった。

 この賠償金の一部返還を受けて開始されたのが、「庚款留学生」の制度である。また1911年に、米国留学予備校として「清華学堂」を設置した。これが現在の清華大学の起源となっている。

3. 日中戦争による西部への疎開

 1937年日中戦争が勃発し、日本軍が主要都市を占領したため、北京大学、清華大学、南開大学(天津)は西部に疎開し、雲南省昆明で「国立西南連合大学」を設置した。当時の中国の大学は主として大陸の海側に立地していたため、日本軍の侵略が拡大するに従い他の多くの大学が大陸西部に疎開することになった。家族を連れた教員、研究員や学生らが、図書、研究器具、家財道具などの荷物を持って徒歩や鉄道・船舶で戦火の中を移動したものであり、大変困難な道程であった。

4. 中国共産党による中華人民共和国建国

 日本の敗戦後に国共内戦が勃発し、最終的に中国共産党が勝利して国民党政府は台湾に逃れた。1949年10月1日、天安門広場にて建国式典が行われ、毛沢東により中華人民共和国の成立が宣言された。新中国は、ソビエト連邦と中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、翌1951年に勃発した朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、中国は社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。

 各地の大学においても中国共産党による支配が確立し、これに反対する教師や関係者は台湾に逃れた。

5. 院系調整

 社会主義国陣営の一員となった中国では、ソ連のように短期間で近代的な産業体系の構築を目指して、大学教育の役割が学問の追求から専門技術者の育成に重心を置くこととなった。従来の総合大学による教養教育に代わり単科大学や専門大学による専門人材の育成を中心とする高等教育機関の改革の方針が打ち出された。1952年から1953年年末にかけての2年間で、中国史上最大規模の大学再編が行われた。これを「院系調整」と呼んでいる。

 院系調整を経て、大学の数は211校から185校に減少し、全ての教会大学、私立大学は国公立大学に吸収された。一方、多くの国立総合大学は単科大学に分割され、1952年前後の大学数を比較すると、総合大学の数は55校から13校になった。また近代産業の構築のためエンジニアの育成を中心とする工学部が強化された。

6. 高考の開始

 古代からの中国の人材選抜制度として有名なものは「科挙」であったが、近代に至り欧米列強がアジアを侵略すると、科挙に合格した官僚は時代遅れの存在となり、清末の1904年に科挙は廃止された。清末から中華民国の時代に、中国国内では国立大学や欧米の教会などが設立した大学などが設立されていったが、科挙のような全国一律の試験はなく、それぞれの大学で新入生の選抜が続いた。

 新中国建国後の1952年に、全ての大学が参加し全国一律で新入生選抜を行う「全国普通高等学校招生入学考試(通称高考)」が開始された。

7. 文化大革命の大学への影響

 1966年に開始された文化大革命では既成の権威打破が強調され、多くの大学の幹部が取り調べを受け、つるし上げにあった。反動的とされた人々は、不法に監禁されたり、残酷な拷問を受けたり、自己批判を強要された。
 また、統一入学試験である高考がエリートを選抜するものとして糾弾の対象となって停止され、新規学生が入学して来なくなった。

 文化大革命の初期段階で武力を伴った激しい権力闘争が発生し、多くの大学や研究室で教室・研究室などの建物の破壊が繰り返された。秩序維持を目的とする人民解放軍の介入以降、破壊活動は収まっていったが、今度は思想闘争や思想改造の名目で、学生を含む若者や研究者が下放(上山下郷運動)された。この結果として教育の現場は混乱し、大きなブランクをもたらした。

 文革が終了して40年近く経過しているが、大学や政府機関などに文革の負の財産が残っていることを念頭に置く必要がある。

8. 文革の負の遺産からの回復

 四人組逮捕の直後の1976年12月に、「四人組に反対して迫害を受けた全ての人々の名誉の一律回復」が通達され、多数の科学者・研究者に対するでっち上げ・誤審が覆されて冤罪が晴らされ、教壇や科学研究に戻った。文革中にほとんど活動を停止していた大学などの平常業務への復帰が、急ピッチで進んだ。その一貫で統一入学試験である高考も復活した。

 復活した鄧小平は、1978年3月に開催された全国科学大会で演説し、工業、農業、国防、科学技術の四つの近代化を提唱し、「できるだけ早く世界レベルの科学技術専門家を育成することが重要課題である」ことを主張し、国費による欧米への留学を抜本的に拡大した。また、欧米の高等教育システムと歩調を合わせるため、学士、修士、博士の学位を明確にし、これらの学位を授与できる機関を指定する「学位条例」を策定した。また、均一的な資金配分を止め優秀な研究者に大きな資金を投入できる科学技術振興資金プロジェクトを開始した。