留学生派遣の再開(1978年)

 留学生派遣が、西側諸国との科学技術交流が復活することにより再開した。米欧日などの国々に多くの有為な若者が留学していった。

ニクソンの訪中

 文化大革命中の1972年2月、ニクソン大統領は、米国大統領として初めて中国を訪問し、両国の科学技術関係の交流を再開していくことに同意した。しかし、四人組が依然として実権を有する状況の下では、この米中の科学技術交流は本格化しなかった。

鄧小平の大号令

 文革終了後の1978年3月に開催された全国科学大会で鄧小平は、「できるだけ早く世界レベルの科学技術専門家を育成することが重要課題である」とし、「あらゆる民族と国家は、他の民族と国家の長所やその先進科学技術を勉強すべきである。我々は今日の科学技術の低水準から脱却するだけではなく、将来先進国に追いついても学習を続けるべきである」と述べた。

 さらに、同年6月に開催された清華大学の高等教育報告会において鄧小平は、「できる限り早く国内の科学技術・教育レベルを高めるべきである。留学生派遣を進めることで外国と科学技術レベルを比較することもできるし、我々の大学のレベルも分かる。派遣する留学生の数は十人単位の小さなものではなく、千人・万人単位とすべきだ。今年はまず3千人、来年からは1万人にしたい。費用をいくらかけても、その価値がある」と発言した。

留学生派遣の再開

 留学生派遣の再開にこれら鄧小平の発言が大きく影響し、1960年から20年近く停止していた留学生派遣の再開のきっかけとなった。
 そして、「今年3千人、来年1万人」という言葉も、教育部の留学生派遣の数値目標となった。このように鄧小平の強い指示により、米国や欧州さらには日本などに優れた学生を留学生として派遣する政策が推進されていった。

米国への留学の状況

 この状況について、米国を例にとって以下に記述する。

 文革後の1978年7月から米中国交正常化をめぐる米中協議が中国で行われ、その結果1979年1月に米中間で国交が正常化した。その米中協議の中で、新中国設立後初めての米国への留学生派遣が決まった。

 1978年9月、米国を含めた西側諸国への国費留学生選抜試験が行われ、中国全国から約12,000人が筆記と面接試験に参加し、合格者は3,000人に上った。同年10月、教育部は文革後の初の留学派遣先の候補として、米国などに代表団を派遣し留学生の受入れに関する協議を行った。米国は米中協議の結果を受けて、米中科学技術交流の最初の一歩として50名の留学生の米国受け入れを決定した。

 1978年11月、教育部外事局は上記3,000人の試験合格者から、米国への留学生候補として、北京、上海、天津の研究者50名を選定した。さらに、北京大学からの2名の若手数学者という特別推薦者を入れて、合計52名とした。52名の中、4人は上海、4人は天津、その他の44名は北京の研究者であった。また、北京大学から13名、清華大学から9名、中国科学院の各研究所から12名で全体の3分の2を占めている。その他、北京工業大学、天津大学、南開大学、北京原子力研究所、北京協和医院などの研究者であった。平均年齢は41歳、うち女性は6名で、専門分野は理・工・農・医が中心であった。
 選抜された52名の留学生は、鄧小平氏の訪米時期に合わせ1978年12月に、パリ経由でワシントンDCに到着した。52名はまずジョージタウン大学とアメリカン大学で半年の英語研修を受けて、それぞれハーバード大学、MIT、カリフォルニア大学バークレー校などで2年間勉学や研究に励んだ。2年後中国に戻った彼らは、全国の重要な研究ポストに就いた。

 米国留学組の52名に続き、3,000名の西側諸国への国費留学生候補の中から約1,800名が派遣されている。これらの留学生は、その後の中国の研究開発力の向上に貢献した。

参考資料

・捜狐新聞HP 「邓小平在全国科学大会开幕式上的讲话」 2008年
・JST中国総合研究・さくらサイエンスセンター中国の科学技術の政策変遷と発展経緯(PDF)』2019年