はじめに

 銭学森は、中国の宇宙開発の父、ロケット開発の父と呼ばれている。科学に疎くても中国に生まれた者であれば、銭学森の名を知らないものはそれほどいない。日本人でいえば、初めてのノーベル賞受賞に輝いた湯川秀樹博士のような存在である。

講義する銭学森
銭学森

生い立ちと教育、米国への留学

 銭学森(钱学森)が生まれた銭家は、元々浙江省杭州の名家で十世紀の呉越国の王が祖先という。父親の銭均夫は、現在の浙江大学の前身である求是書院を経て、1904年に魯迅らとともに日本に留学し、筑波大学の前身である東京高等師範学校に入学した。同校で教育学を学び1908年に卒業し、1910年に中国に帰国して孫文の主導する革命運動に身を投じた。辛亥革命の成功後は、中学校校長や浙江省の教育長などを歴任している。

 銭学森は1911年に上海で生まれ、北京師範大学附属中学を経て、1929年に鉄道部(部は日本の省に該当)が所管していた交通大学上海学校の機械学科に入り、1934年に卒業した。交通大学は、その後上海交通大学と西安交通大学に分かれ、所管も鉄道部から教育部に変わっている。

 交通大学を卒業した銭学森は、庚款留学生試験に合格し、1935年にマサチューセッツ工科大学(MIT)の航空学科に入学した。一年後に同大学から修士号を取得し、今度はカリフォルニア工科大学(Caltech)に移り、セオドア・フォン・カルマン教授に師事した。カルマン教授はハンガリー出身のユダヤ系米国人で、現在でもカルマン渦で名を残す航空工学の著名な研究者であり、後にNASAのジェット推進研究所(JPL)の初代所長を務めている。銭学森は、このカルマン教授の下で数学と航空工学の博士号を取得し、1943年にCaltech助教授、1947年に教授となった。

米国での監禁生活と釈放

 1949年10月、新中国建国の報を聞いた銭学森は家族で帰国しようとしたところ、当時全米を揺るがしていたマッカーシー上院議員をリーダーとする赤狩り運動に巻き込まれた。銭学森は、軍事機密研究関与を防止するとの理由で研究室への入室証明書を取り消されたうえ、帰国のために乗船しようと港に到着したところをスパイ容疑で米国海軍に拘束された。Caltech当局が巨額な保証金を支払ったことにより銭学森は2週間後に釈放されたが、その後は研究活動も思いどおりに出来ず、一種の軟禁状態に置かれた。

 1954年4月、米国・ソ連・英国・フランスなどが参加して朝鮮問題・インドシナ問題に関する国際会議がジュネーブで開催され、中国からは周恩来首相らが参加した。周首相はこの機会を捉えて、米国で拘束されている銭学森を含む中国人研究者らの釈放交渉を事務方に指示した。ジュネーブ会議の際には合意に達しなかったが、その後も粘り強く交渉を続け、翌1955年に朝鮮戦争で捕虜とした米空軍のパイロット11名の釈放を交換条件とすることで米側と合意した。

ミサイルやロケット開発を陣頭指揮

 銭学森は妻と幼い息子と娘を同行して汽船に乗り込み、1955年10月に漸く祖国に帰った。

米国~帰国する銭学森一家
米国~帰国する船の上での銭学森一家

 帰国後の1956年に銭学森は、両弾一星政策におけるミサイル開発を進めるため国防部に設置された第五研究院の初代院長となり、ミサイル開発の陣頭指揮を執った。また同年、中国科学院に設置された力学研究所の初代所長を兼務し、基礎的・理論的な研究や人材育成にも力を注いだ。

 1964年10月に、銭学森らが開発したミサイルは酒泉衛星発射センターより打ち上げられ、ミサイルに装着された核弾頭により中国初の核実験は成功した。さらに銭学森らはミサイル技術を発展させ、1970年4月に長征1号ロケットによって、中国初の人工衛星打ち上げに成功し、これにより両弾一星を完成させた。

謙虚な人柄

 銭学森は、強い愛国心と謙虚な人柄で多くの中国人に尊敬されている。「外国人にできることは中国人にもできる」と述べた言葉が、中国人に愛国心や自負心を与えた。また、自分への賞嘆に対しては、「私は滄海一粟(蘇軾の詩に由来し、滄海は大海、一粟は一粒の粟のことで、比較にならないほど小さいことの比喩)に過ぎない」と述べたという。

 晩年は、中国人民政治協商会議全国委員会副主席や中国科学技術協会主任などを務めた後、2009年に98歳で北京において逝去している。

日本人の血を引く蒋英夫人

 米国の軟禁生活でも苦楽をともにした夫人蒋英は声楽家であり、日本人の母を持つハーフである。蒋英夫人の父は蒋百里で、清朝末期の英才として1901年日本陸軍士官学校に留学し、帰国後、保定陸軍士官学校校長などを務めている。蒋百里校長が病気となった際、日本の領事館から看護婦として派遣されたのが、後に妻となる佐藤屋子(中国名は蒋左梅)である。
 1919年生まれの蒋英夫人はこの夫婦の三女であり、1936年に父に従って欧州のイタリア、オーストリアなどをめぐり、1937年にベルリン音楽大学に入学、1941年に卒業した。第2次大戦終了後の1947年に銭学森と上海で挙式し、以降米国に住んだ。数年間の軟禁生活を夫とともに過ごし、中国に帰国した後は、中央音楽学院声楽科の教授として活躍した。

銭学森の妻・蒋英
蒋英夫人 百度HPより引用

参考資料

・“Qian Xuesen, Father of China’s Space Program, Dies at 98” New York Times(2009年11月3日)
・“Qian Xuesen Obituary” The Guardian (2019年9月13日) https://www.theguardian.com/technology/2009/nov/01/qian-xuesen-obituary
・“毛泽东封钱学森为“火箭王”” 中華人民共和国教育部 (2008年11月1日)
・『銭学森的故事-実干興邦科学家故事叢書』林承謨 華中科技大学出版2013年5月