概要

 同済大学 (同济大学、Tongji University) は、上海にある総合大学で、特に土木・建築工学で中国トップクラスとなっている。

 ドイツ人のパウルン医師(後述)の貢献により、1907年に設置された上海徳文医学堂が源である。その後総合大学となったが、新中国建国後に、医学院は湖北省武漢に移転を命じられ、現在の華中科技大学同済医学院となっている。

 1952年の院系調整で、土木・建築工学主体の大学となったが、文革後に徐々に他の学部を増やし、さらに2000年に上海鉄道大学と合併したことなどにより、医学院を有する総合大学に復帰した。

同済大学の写真
同済大学 同大学HPより引用

1. 名称と所管

(1)名称

・中国語表記 同济大学   略称 同济
・中国語表記 同済大学  
・英語表記 Tongji University 略称 Tongji

 「同済」は、ドイツ(Deutsh)を上海語の音表記で示したものであり、また兵法書・孫子にある「同舟共済」にも由来する。「同舟共済」とは、「呉人と越人は互いに憎みあっていても、同じ舟で済(わた)っていて風に遇えば左右の手のように助け合う」との意味で、同じ課題を持つ者同士が協力することを示したものである。日本語では、同じ孫子から引用した「呉越同舟」がそれに近い。 

(2)所管

 国務院教育部の直轄大学である。

2. 本部の所在地

 同済大学の本部は、上海市楊浦区四平路1239号にある。四平路キャンパスと呼ばれている。

3. 沿革

(1)母体は徳文医学堂

 同済医学院は、1907年にドイツと中国が上海に設立した上海德文医学堂が源である。この上海徳文医学堂の設立には、初代校長となったドイツ人医師エーリッヒ・パウルン(Erich Hermann Paulun、埃里希・宝隆)が大きな貢献をしている。詳細は、下記8.の特記事項を参照されたい。

 設立時には医学とドイツ語を教えた。1908年、同済德文医学堂と改称した。1912年には工科を設置し、同済徳文医工学堂と改称した。

 1914年から開始された第一次世界大戦により、ドイツは中国からの撤退を余儀なくされ、同済徳文医工学堂へのドイツの関与はなくなった。中国政府は同学堂を存続させることとし、1917年に私立同済医工専門学校と改称した。

(2)国立同済大学

 1923年に同済大学と改称し、同大学に医科と工科を設置した。3年後の1927年には国立同済大学と改称し、医・工両科は、それぞれ医学院と工学院となった。
 1937年には、文学院、理学院、法学院を設置し、国立同済大学は総合大学になった。

 同年7月に日中戦争が勃発し、上海も日本軍に占領されたため、国立同済大学も西部への疎開を余儀なくされ、浙江省、江西省、雲南省などを移動したのち、1940年に四川省に拠点をおいて教学を続けた。

 第二次世界大戦終了後、日本軍が敗戦で上海から撤退し、翌1946年に国立同済大学は上海に戻った。

(3)新中国建国と院系調整

 日本軍の中国大陸から撤退後に開始された国共内戦は共産党の勝利となり、上海は1949年6月に人民解放軍に接収された。同年9月には、国立同済大学の文学院と法学院は、復旦大学に移管を命じられた。
 同年10月に中華人民共和国が建国されると、国立同済大学は高等教育部(現在の教育部)の直属大学となり、同済大学と改称された。

 1950年に、中国中部南部地区の医療・健康サービスを支援すべきとの中央政府の方針に従い、同済大学の医学院が湖北省武漢市に移転を命じられ、元々武漢市内にあった武漢大学医学院と合併し、中南同済医学院と改称することとなった。これが、現在の華中科技大学同済医学院である。

 中国政府は1952年に全国の大学の学部再編政策である院系調整を実施するが、同済大学も大きな影響を受けた。具体的には次の通りである。
・土木工学と建築工学関係は強化の対象となり、近隣の大学の土木工学科や建築工学科が編入された。
・理学部は、工学を学ぶために必要な基礎教育を残して、ほとんどが復旦大学、華東師範大学などに移管となった。
・工学関係でも、機械、電機、造船などは交通大学(現在の上海交通大学西安交通大学)に移管された。

(4)文化大革命

 1966年に文化大革命が始まると、同済大学も大きな影響を受けた。革命開始直後、入試・高考が中断され、新入生は無くなった。また、大学内に「同済大学革命委員会」が設置され、さらにその中心として「中共同済大学核心小組」が設置された。
 1970年には、共産党などの推薦を受けた工農兵学生が入学してきた。

 1976年、四人組逮捕により文革が終息し、翌1977年に鄧小平の号令により高考が復活して、大学教育が回復した。

(5)総合大学への復帰と上海鉄道学院との合併

 文革終了後、院系調整により土木・建築の専門大学となっていた大学を、理学、他の工学などを復活させて、再び総合大学とする努力が続けられた(下記の学部の状況を参照されたい)。また、中国政府の大学重点化政策である211工程985工程双一流建設政策の大学にも指定された。

 その中で最も重要なのは、医学院の復活である。元々は医学教育が大学の出発点であったものが、新中国政府の方針により医学院が湖北省武漢に移転を命じられ、その後は医学教育は行われていなかった。2000年に上海鉄道大学との合併により、同大学の医学院を基礎に同済大学医学院が設置された。

 上海鉄道大学医学院は、新中国建国後の1953年に上海鉄道管理局が設置した上海衛生学校が始まりである。文革中の1971年に寧夏回族自治区に移転を命じられ寧夏医学院の一部となり、文革後に再び上海に戻って上海鉄道医学院となった。1995年に上海鉄道学院と合併して上海鉄道大学医学院となった。  

4. 規模

(1)規模のデータ

 同済大学は、中国の主要大学の中で、比較的小規模の大学である。1952年の院系調整で土木・建築工学を専門とする単科大学的大学となったことが、現在に影響していると考えられる。
 具体的な数値で見たのが下表である。

 同済大学中国第1位の大学 
学部学生数18,514名(66位)鄭州大学 47,000名詳細データ
大学院生数18,584名(27位)中国科学院大学 57,375名詳細データ
専任教師数2,792名(24位)吉林大学 6,506名詳細データ
総予算119.51億元(13位)清華大学 362.11億元詳細データ
留学生数2,225名(13位)北京大学 6,857名詳細データ

(2)キャンパス

 同済大学は、本部のある四平路キャンパスに加え、嘉定、上海西(沪西)、上海北(沪北)の3つのキャンパスを有している。

(3)学部

 同済大学は、政府の教育部が定めている12の大分類(日本の大学の学部に相当)について、工学、理学、医学、管理学、哲学、文学、法学、教育学、芸術を有する総合大学である。

(4)附属医院

  同済大学医学院のHPによれば、11の附属医院を有し、6つの付属医院を準備中である。

・同済大学附属第十人民医院
・同済大学附属同済医院 上海市同済医院とも呼ばれる(下記特記事項を参照)
・同済大学附属東方医院
・同済大学附属上海市肺医院
・同済大学附属産婦人科医院
・同済大学附属楊浦医院
・同済大学附属養志リハビリテーション医院
・同済大学附属皮膚科医院
・同済大学附属上海市第四人民医院
・同済大学附属精神衛生センター
・同済大学附属普陀人民病院

・同済大学附属天佑医院(準備中)
・同済大学附属ハビリテーション医院(準備中)
・同済大学附属脳医院(準備中)
・同済大学附属眼科医院(準備中)
・同済大学附属閘北中心医院(準備中)

5. 研究開発力

 同済大学は、中国の主要大学において15位から20位前後の研究開発力を有すると考えられる。

(1)研究開発力のデータ表

 同済大学の研究開発力を、データとして示したのが下表である。
 このうち、SCI論文数とはラリベートアナリティックス社のデータによる論文数、Nature Indexとは世界トップクラスの科学誌・学会誌掲載の論文数による指標、NSFCの面上項目予算の獲得額である。国家重点実験室は下記(2)、双一流学科建設数は下記(3)を参照されたい。

 同済大学中国第1位の大学 
SCI論文数17位中国科学院大学詳細データ
Nature Index20位中国科学技術大学詳細データ
国家重点実験室数3か所(16位)清華大学 13か所詳細データ
双一流学科建設数8学科(15位)北京大学詳細データ
NSFC面上項目予算7位上海交通大学詳細データ

(2)国家重点実験室

 同済大学にある3か所の国家重点実験室は、次の通りである。

・土木工学防災
・汚染管理・資源化研究
・海洋地質

(3)双一流学科建設

 中国は2017年に、国内の大学とその学科を21世紀半ばまでに世界一流とすることを目標とする政策(双一流政策)を開始した。2022年に改訂された双一流学科建設において、同済大学は全体で以下の8学科が選定されている。1952年の院系調整の影響が残っていて、建築、土木工学関連の技術は、中国でもトップクラスとなっている。

 ○理学系(1) 生物学
 ○工学系(7) 建築学、土木工学、材料科学・工学、地形測量科学・技術、環境科学・技術、都市農村計画学、風景園林学、設計学

(4)NSFC面上項目予算獲得

 日本の科研費に近い予算として、国家自然科学基金委員会(NSFC)が所管する面上項目予算がある。この予算をどの程度獲得するかで、当該大学の研究能力を判定しうる。2019年で同済大学は中国全体で7位である。

6. 国内および国際的な評価

 中国の国内と国際的な評価を示したのが下表である。国内では国務院教育部と中国校友会、国際では英国のQS(Quacquarelli Symonds Limited)とTHE(Times Higher Education)のランキングを示した。また、卒業生の中での傑出科学技術人材数の校友会ランキングも、併せて示した。
 これで見ると同済大学は、中国国内では主要大学の中で20位前後にあるが、国際的な評判は10位前後とより高い。

 同済大学中国第1位の大学 
軟科ランキング18位清華大学詳細データ
校友会ランキング17位北京大学詳細データ
QSランキング世界192位  中国8位北京大学詳細データ
THEランキング世界154位 中国11位清華大学詳細データ
校友会傑出人材27位北京大学詳細データ

 

7. 特記事項

(1)創始者はドイツ人医師パウルン

  同済大学の源である上海德文医学堂の設立には、ドイツ人医師エーリッヒ・パウルン(Erich Hermann Paulun、埃里希・宝隆)が大きな貢献をしている。

パウルン医師の写真
エーリッヒ・パウルン 百度HPより引用 

 エーリッヒ・パウルンは、1862年にドイツで生まれ、ベルリンで医学教育を受けた後、1888年にドイツ海軍の軍医となった。東アジア海域の砲艦で勤務の後、上海のドイツ領事館付きの医師となった。
 パウルンは、ドイツに戻って外科技術の向上などを目的として病院で研修を受けた後、1900年に再び上海に戻り、上海にあったドイツ租界近くに自らの診療所を開いた。これが、現在中国の主要医院の一つとなっている武漢同済医院の始まりである。

 パウルンはその後1907年に、中国の医療事情を抜本的に改善するためには中国人医師の養成が急務と考え、ドイツ政府、中国政府、さらには他のドイツ人医師仲間の協力を得て、上海同済徳文医学堂を上海に設置した。パウルンは同医学堂の初代校長となっている。沿革で述べたようにこれが同済大学の起源である。

 パウルンは、1909年に腸チフスに感染して亡くなった。享年47歳であった。

(2)上海市同済医院

 沿革で述べたように、新中国建国後に、かつての同済医学院及び同済医院は、西部・湖北省武漢に移転したが、上海の人達は同済医院に対する愛着を強く持ち続け、なんとか上海に同済の名を冠した医院の再建を望んだ。
 2000年に旧同済大学と上海鉄道大学が合併した際、上海鉄道大学医学院の臨床医院であった甘泉医院を同済大学附属同済医院とした。この医院は、武漢の同済医院に対し、上海市同済医院とも呼ばれている。

上海市同済医院の写真
同済大学附属同済医院(上海市同済医院) 百度HPより引用

(3)卓越大学連盟

 同済大学は2010年に、北京理工大学、大連理工大学、東南大学、ハルビン工業大学、華南理工大学、天津大学、西北工業大学、重慶大学の8大学とともに、「卓越人材育成協力枠組協定(卓越人才培养合作框架协议)」に署名し、協力を行っており、これを「卓越大学連盟(卓越大学联盟)、Excellence 9(E9)」と呼んでいる。
 中国にはこれとは別に、北京大学や清華大学など中国トップレベルの大学が参加する別の協力枠組みである「九校連盟(九校联盟)、China 9(C9)」がある。

参考資料

・同済大学HP https://www.tongji.edu.cn/
・同済大学医学院HP https://med.tongji.edu.cn/index.htm