はじめに

 生物物理研究所 (Institute of Biophysics) は、北京市にある中国科学院の附属研究機関である。

 中国における最先端の生物学の研究所として、タンパク質科学、脳と認知科学、感染・免疫、DNA生物学などの基礎生物学・学際生物学などの研究を行っている。

 規模はそれほど大きくないが、研究開発力、研究成果などで、中国科学院内のトップレベルとなっている。とりわけ、ライフサイエンス研究では中国を牽引する研究機関である。

生物物理研究所 の写真
生物物理研究所

1. 名称

○中国語表記:生物物理研究所  略称 生物物理所
○日本語表記:生物物理研究所
○英語表記:Institute of Biophysics, Chinese Academy of Sciences  略称 IBP

2. 所在地

 生物物理研究所本部の所在地は、北京市朝陽区大屯路15号である。北京市の中心である天安門から10キロメートルほど北にある。近くには、オリンピックのメイン会場となった北京国家体育場(通称、鳥の巣)があり、西に行くと中国農業大学を経て、清華大学北京大学に達する。また、中国科学院の施設としては、同じライフサイエンス系の動物研究所や心理研究所がある。

鳥の巣の写真
2008年と2022年のオリンピックのメイン会場となった北京国家体育場(通称:鳥の巣)

3. 沿革

(1)実験生物研究所の設立

 1949年に設立された中国科学院は、国民政府時代の中央研究院や北平研究院の施設や人員を接収し、1950年6月にこれらの施設や人員を整理して、15の附属研究所を新たに設置した。
 その1つとして上海に設立されたのが、実験生物研究所である。実験生物研究所は、北京にあった北平研究院の生理学研究所および動物研究所、上海にあった中央研究院の植物学研究所および動物学研究所の施設や人員を接収し、これを整理して上海に設立された。

 実験生物研究所の初代所長となったのは、当時浙江大学教授兼理学院長であった貝時璋(贝时璋)である。貝時璋については、こちらを参照されたい。

(2)生物物理研究所の設立

 貝時璋は、北京にある中国科学院本部での業務にも携わったため、1954年に自らの研究室を北京に移転させて研究も北京で出来るようにした。貝時璋の北京の研究室が中心となって、1957年に北京実験動物研究所が設置され、さらに1958年にはこれを母体として生物物理研究所が設置され、初代所長に貝時璋が就任した。

 その後生物物理研究所は、ライフサイエンスの発展を受けて順調に発展し、現在に至っている。

4. 組織の概要

(1)研究分野

 生物物理研究所は、これまで細胞生物学、放射線生物学、宇宙生物学、酵素学、構造生物学、膜生物学、神経生物学、バイオサイバネティクス、生物物理工学技術などの分野で、数多くの優れた科学者を輩出し、ハイレベルな研究成果を挙げてきた。さらに近年は研究分野を拡大し、タンパク質科学、エピジェネティクス、脳・認知科学、感染・免疫、核酸生物学、タンパク質・ペプチド医薬などの分野において重要な研究成果を達成している。

(2)研究組織

・生物大分子国家重点実験室(生物大分子国家重点实验室) 後述する。
・脳・認知科学国家重点実験室(脑与认知科学国家重点实验室) 後述する。
・エピジェネティック制御・介入重点実験室(表观遗传调控与干预重点实验室)中国科学院級実験室。

(3)研究支援プラットフォーム(支撑平台)

 生物物理研究所には、下記の研究支援プラットフォームがあり、所内外の施設・装置の利用需要に対応している。

・タンパク質科学研究プラットフォーム(蛋白质科学研究平台)
・北京磁気共鳴脳画像センター(北京磁共振脑成像中心)
・感染・免疫公共プラットフォーム(感染与免疫公共平台)
・健康ビッグデータ研究センター(人事サンプル ライブラリ)
・タンパク質・ペプチド医薬プラットフォーム(蛋白质与多肽药物平台)
・人類資源サンプル ライブラリ(人类资源样本库)

(4)研究所の幹部

 研究所の幹部は、所長、中国共産党委員会(党委)書記、副所長、副書記である。大学などでは、党委書記の方が学長より強い権限を有しているが、中国科学院の付属研究所の場合には所長が最高責任者の場合が多い。

①劉力・所長

 劉力(刘力)・生物物理研究所所長は、1967年に生まれ、1989年に南開大学物理学科で学士の学位を、1996年に生物物理研究所で博士の学位をそれぞれ取得し、生物物理研究所で入所した。1997年には、ドイツのビュルツブルグ大学に赴き、ポスドク研究を行った。1999年に百人計画に当選し、生物物理研究所に戻った。2012年に副所長となり、2023年から所長を務めている。専門は視覚情報処理や認知行動における細胞・分子機構の研究で、2015年に中国工程院の院士に当選している。

②趙志剛・党委書記兼副所長

 趙志剛(赵志刚)・党委書記は、副所長も兼務しており、生物物理研究所のナンバーツーである。趙志剛は、1969年に生まれ、1991年に北京大学工学院で学士の学位を取得した後、山西省の化工研究所に入所した。その後、1997年に北京化工大学で修士の学位を取得した後、中国科学院の化学研究所に勤務し、さらに2002年からは中国科学院の本部に勤務した。2023年から生物物理研究所の党委委書記となった。

5. 研究所の規模

 生物物理研究所は、中国科学院の傘下の研究所では、それほど大きな規模ではない。

(1)職員数

 2021年現在の職員総数は540名で、中国科学院の中では第30位までのリストのランク外である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。540名の内訳は、研究職員が471名(87%)、技術職員(中国語で工員)が7名(1%)、事務職員が62名(12%)である。

(2)予算

 2021年予算額は5億8,539万元で、中国科学院の中では第30位までのリストのランク外である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。5億8,539万元の内訳は、政府の交付金が3億7,892万元(65%)、NSFCや研究プロジェクト資金が1億5,258万元(26%)、技術収入が2,034万元(3%)、その他が3,355万元(6%)となっている。

(3)研究生

 2021年現在の在所研究生総数は742名で、中国科学院の中では第20位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。742名の内訳は、修士課程の学生が318名、博士課程の学生が424名である。

6. 研究開発力

(1)国家級実験室など

 中国政府は、国内にある大学や研究所を世界レベルの研究室とする施策を講じている。この施策の中で最も重要と考えられる国家研究センターと国家重点実験室であり、中国科学院の多くの研究機関に設置されている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。上記組織の項でも述べたが、生物物理研究所は2つの国家重点実験室を有している。

生物大分子国家重点実験室(生物大分子国家重点实验室):1989年に国の認可を受け、1991年から研究を開始した。生体高分子を原子から理解することを目標とし、タンパク質、酵素、膜タンパク質などの生体高分子の構造(三次元構造を含む)、運動、機能の関係についての研究を行っている。2021年現在で、正規研究員が164名、客員研究員が80名、研究生としてポスドク71名、博士学生167名、修士学生125名である。
脳・認知科学国家重点実験室(脑与认知科学国家重点实验室):2005年に国の認可を受け、2007年から研究を開始した。視覚情報の表現と視覚系の脳マッピングを目標とし、脳機能イメージング手法を用いて、分子遺伝学、細胞生理学、機能イメージングなどを研究する。2021年現在で、正規研究員が88名、客員研究員が33名、研究生としてポスドク20名、博士学生95名、修士学生100名である。

(2)大型研究開発施設

 中国科学院は、同院や他の研究機関の研究者の利用に供するため大型の研究開発施設を有している。大型共用施設は、専用研究施設、共用実験施設、公益科学技術施設の3つのカテゴリーがある(中国科学院内の設置状況詳細はこちら参照)。

 生物物理研究所は、この様な大型共用施設・共用実験施設はない

(3)NSFC面上項目獲得額

 国家自然科学基金委員会(NSFC)の一般プログラム(面上項目、general program)は、日本の科研費に近く主として基礎研究分野に配分されており、中国の研究者にとって大変有用である。生物物理研究所のNSFCの獲得資金額は、2021年1,258万元(件数は22件)であり、中国科学院の中では第19位に位置する(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

7. 研究成果

(1)Nature Index

 科学雑誌のNatureは、自然科学系のトップランクの学術誌に掲載された論文を研究機関別にカウントしたNature Indexを公表している。Nature Index2022によれば、生物物理研究所は中国科学院内第14位であり、論文数で28.9となっている(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。
 このNature Index に関し、中国の主要大学のそれと比べると高くない。中国の主要大学のNature Indexによるランキングは、こちらを参照されたい。

(2)SCI論文

 上記のNature Indexはトップレベルの論文での比較であり、より多くの論文での比較も重要である。しかし、中国科学院は各研究所ごとの論文数比較を出来るだけ避け、中国科学院全体での比較を推奨している。このため、SCI論文などで研究所ごとの比較一覧はない。

 ただ、研究所によっては自らがどの程度SCI論文を作成しているかを発表している。
 生物物理研究所もその一つであり、同研究所HPによれば、2014 年から2023年までに発表したSCI論文数の推移は次の通りであり、毎年おおよそ400~500件で推移している。

生物物理研究所論文数の推移
過去10年間に生物物理研究所が発表した論文数 同研究所HPより引用


 なお、年400~500件という数字を中国の主要大学のそれと比較すると、清華大学、北京大学、上海交通大学などは、SCI論文を毎年約10,000件前後発表している(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。したがって中国の主要大学と比較すると、それほど大きなものではない。

(3)特許出願数

 2021年の生物物理研究所の特許出願数は42件で、中国科学院内の20位までを示した比較(こちら参照)で、ランキング外である。基礎科学を中心とする機関であり、特許取得になじまないのであろう。

(4)成果の移転収入

 2021年の生物物理研究所の研究成果の移転収入は、中国科学院内の10位までを示した比較(こちら参照)で、ランキング外である。

(5)両院院士数

 中国の研究者にとって、中国科学院の院士あるいは中国工程院の院士となることは生涯をかけての夢となっている。2024年2月時点で生物物理研究所に所属する両院の院士は12名であり、中国科学院内で第5位である(他の研究機関との比較の詳細はこちら参照)。

○中国科学院院士(12名):梁栋材、王志新、王志珍、饶子和、郭爱克、陈霖、王大成、常文瑞、陈润生、阎锡蕴、徐涛、张宏。

8. 特記事項

(1)著名な研究者

①貝時璋(贝时璋)

 貝時璋は、生物物理研究所の生みの親であり、初代所長を務め、名誉所長にも就任した。貝時璋の略歴はこちらを参照されたい。

貝時璋の写真
100歳時の貝時璋

②鄒承魯(邹承鲁)

 生物物理研究所関連で、もう一人の著名な科学者は、鄒承魯である。鄒承魯は、ウシ・インスリン合成で成果を挙げた科学者である。鄒承魯の略歴は、こちらを参照されたい。

鄒承魯の写真
鄒承魯

 

(2)日本との協力

 東京大学医科学研究所は2005年に、中国科学院生物物理研究所・饒子和所長(当時)、中国科学院微生物研究所・高福所長(当時)、医科学研究所・岩本愛吉教授および山本所長(当時)らのリーダーシップのもとに日中連携プログラムを立ちあげた。
 その後、2015年に国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)の「感染症研究国際展開戦略プログラム」として再編し、2020年度からは「新興・再興感染症研究基盤創生事業・海外拠点研究領域」における「中国拠点を基軸とした新興・再興および輸入感染症制御に向けた基盤研究」として活動し、感染症の予防・診断・治療に資する基礎的研究を推進している。
 現在は、同じ中国科学院の北京にある研究機関「微生物研究所」がメインの協力相手となっている。

参考資料

・中国科学院生物物理研究所HP http://www.ibp.cas.cn/
・中国科学院統計年鑑2022 中国科学院発展企画局編
・中国科学院年鑑2022 中国科学院科学伝播局編
・東京大学医科学研究所アジア感染症研究拠点HP https://www.rcaid.jp/