日中戦争激化に伴う大学・研究機関の疎開(1937年~)

 国民政府の時代に順調に発展した中国の大学や研究機関であったが、日中戦争が勃発し日本軍が北京、上海、南京などを占領すると、政府の大陸西部への移転と共に、大学や研究機関も西部への疎開を余儀なくされた。

西南連合大学の成立

 1937年日中戦争が勃発し、日本軍は同年7月末までに北京と天津を占領した。北京市内が日本軍に占領されたため、北京市内の有力大学であった北京大学も清華大学では落ち着いて授業をする状況でなくなり、同じく日本軍に占領された天津にあった南開大学とともに、内陸部にある湖南省長沙に移動し、同年11月に3大学を合わせ「国立長沙臨時大学」を開校した。

 ところが日本軍は、1937年11月に上海を、同年12月に南京を占領した。南京が日本軍に占領されたことにより、国立長沙臨時大学のあった湖南省長沙も戦火の影響を受ける恐れが出てきたため、開校からわずか4か月後に長沙を放棄し、はるか南西部にある雲南省昆明に向けて移動を開始した。1938年5月、「国立西南連合大学」が雲南省昆明において正式に開校した。

西南連合大学校舎風景
西南連合大学の校舎風景 百度HPより引用

 しかし1940年には、この雲南省昆明に対しても日本軍が空襲を行い、国立西南連合大学も2度にわたり爆撃を受けた。このため、大学側はさらに奥地となる四川省に分校を作り、一部の学生の授業をそこで行った。その後、1941年12月の太平洋戦争勃発にともない、日本軍の圧力も減少したため、昆明で比較的落ち着いた授業が展開された。

 日本の敗戦にともない第2次世界大戦が終結し1946年に昆明を撤収したが、北京などを離れて湖南省長沙、雲南省昆明、四川省にいた9年間における卒業生は約2000名に達した。

他の大学や中央研究院の疎開

 疎開を強制されたのは、北京大学や清華大学だけではない。

 例えば復旦大学は上海から重慶に、浙江大学は浙江省杭州から江西省宜山に、中山大学は広東省広州から雲南省澄江に、それぞれ疎開している。

 また研究機関では、中央研究院は戦乱を避けて昆明、桂林、重慶等へ疎開し、北平研究院は雲南省昆明に北平研究院の仮事務所を設置し、物理、化学、生理、動物、植物、地質、歴史の7つの研究所を昆明に移した。

 家族を連れた教員、研究員や学生らが、図書、研究器具、家財道具などの荷物を持って徒歩や鉄道・船舶で戦火の中を移動したものであり、大変困難な道程であったと想定される。

西南連合大学卒業生から2人のノーベル賞受賞者

 この時期で特筆すべきことは、国立西南連合大学の卒業生から2名のノーベル賞受賞者が出ていることである。

 楊振寧は1922年安徽省合肥の生まれで、清華大学付属中学(高級中学のことで日本の高校に相当)を経て、1942年国立西南連合大学を卒業して、1945年シカゴ大学へ留学し、エンリコ・フェルミに師事した。
 もう一人の李政道は1926年江蘇省蘇州の生まれで、1943年に浙江大学に進学するも日中戦争により学業中断を余儀なくされ、翌1944年に国立西南連合大学へ転入した。1946年にシカゴ大学に留学し、楊振寧と同様にエンリコ・フェルミのもとで博士号を取得した。

 楊振寧と李政道は、素粒子間の弱い相互作用におけるパリティ非保存に関する共同研究を行い、パリティ対称性の破れが存在することを強く示唆し、2人はこの業績により1957年度のノーベル物理学賞を受賞している。2人は米国籍であるが、中国系で初のノーベル賞受賞者であった。

参考資料

・田中仁ほか『新図説中国近現代史』法律文化社 2012年