院系調整(1952年)

 院系調整は、新中国建設を進める際に多くの技術者などを必要としたため、1952年にソ連に倣って行った大学の学部再編政策である。

建国前の大学の状況

 中国では清末から中華民国の時代に近代的な大学制度が導入され、京師大学堂(現北京大学)、清華学堂(現清華大学)などが開設された。さらに、欧米の教会も燕京大学(北京)などを開設しており、1930年頃までに39の大学、17の学院、23の専門学校が存在し、英国や米国の高等教育をモデルとしていた。

院系調整の実施

 新中国の建国後、経済建設に直ちに役立つ技術者が不足していたため、ソ連のような近代的な産業体系の短期間における構築を目指して、大学教育の役割を学問の追求から専門技術者の育成に変更することとなった。

 1950年6月に開催された第1回全国高等教育大会で、国家建設および経済成長のため、従来の総合大学による教養教育に代わり単科大学や専門大学による専門人材の育成を中心とする高等教育機関の改革の方針が打ち出された。

 1952年から1953年年末にかけての2年間で、中国史上最大規模の大学再編が行われた。これを「院系調整」と呼んでいる。

院系調整後の大学の状況

 院系調整を経て、大学の数は211校から185校に減少し、全ての教会大学、私立大学は国公立大学に吸収された。

 一方、多くの国立総合大学は単科大学に分割され、1952年前後の大学数を比較すると、総合大学の数は55校から13校になった。また近代産業の構築のためエンジニアの育成を中心とする工学部が強化された。

 北京大学と清華大学を例に見ると、北京大学の工学部は清華大学と天津大学に移管された。逆に、清華大学の理学部、法学部、文学部は北京大学に移管された。この再編により、清華大学は工学系の単科大学に近い形となり、北京大学は工学部を有しない文科系の色彩が強い大学となった。なお、理学部はほとんど北京大学に再編されたため、北京大学も清華大学も理学と工学が分離された形となった。

1952年の院系調整
1952年の院系調整 出典 中国語版WikiのHP

 その後政府は、1990年代に後述する211プロジェクトや985プロジェクトなどの大学重点化政策を開始し、院系調整による偏りを直そうとしてきた。この結果現時点では、院系調整の影響はほとんど解消されている。

参考資料

・百度百科HP『中国高等院校1952年院系调整