留美幼童政策の実施(1872年)

 留美幼童政策は、洋務運動の一環として中国史上で初めて実施された、政府による留学生政策である。曾国藩らが主導し1872 年から4年間にわたり、合計120名に上る大陸沿岸部の少年達を米国に派遣した。

容閎が曾国藩に進言

 留美幼童政策に深く関与したのは、容閎ようこうという人物である。
 容閎は、米国に留学の後帰国し、清朝の実力者曽国藩の知己を得て、1872年から中国初めての海外留学生派遣政策である「留美幼童」と呼ばれた政策を実施していった。

留美幼童政策で留学した少年達
留美幼童政策で留学した少年達 百度HPより引用

4年間に合計120名を派遣

 留美幼童政策は、上海、福建、広東など中国の沿岸地域の10歳から16歳までの少年(幼童)を毎年30名選抜し、米国に留学させて(留美)軍事や船政を習得させた後、中国に帰国させるという壮大な計画であった。

 当初は順調に推移し、1872年から4年間に毎年30人ずつ全体で120人の少年が米国留学に出発した。米国では、全ての少年が米国人家庭でホームステイし英語の習得に励んだ後、高等教育に進んだ。1881年時点で、22名がイェール大学、8名がMIT、3名がコロンビア大学、2名がハーバード大学に進んだという。

 ところが、留学生の中からキリスト教徒となるものが出たり、米国の軍関係の学校がこれらの留学生の受け入れを拒否し最終目的の軍事や船政の習得が困難となったりしたことから、1881年に清朝政府は留美幼童政策を中断し留学者全員に帰国命令を発した。容閎も留学生とともに帰国した。

 留学生たちはまだ10代のものが多く、大学を卒業していなかったため、その多くは帰国後それほど重用されなかった。しかしそれでも、これら留学生の中から外交官の唐紹儀や、中国鉄道の父と呼ばれる詹天佑せんてんゆうなどの人物が現れている。

福州船政学堂の留学生との比較

 留美幼童政策による米国への留学生派遣と同時期に、福州船政学堂のフランス人教官が帰国する際、海事を学ぶために同学堂の学生5名をフランスに同行した。その後同学堂のドイツや英国の教官の帰国の際にも、それらの国に同様に留学生を派遣している。

 規模は一回あたり数名からせいぜい十数名、英国とフランスが中心で、留学期間は3年から5年程度、航海術、造船学、魚雷術などの軍事技術が中心であった。

 留美幼童政策による米国への留学生派遣と比較すると、年齢が高く言語と専門知識を身につけたうえでの留学であったため、成果がより上がったと考えられる。

参考資料

・宝鎖『清末中国の技術政策思想~西洋軍事技術の受容と変遷』臨川出版 2020年
・叢小榕『太平天国を討った文臣 曾国藩 (日本語)』総合法令、2000年
・百度HP 留美幼童・中国历史上最早的官派留学生