はじめに
武漢同済医院 (Tongji Hospital)は、ドイツ人医師パウルンが上海に開設した医院が母体であり、その後新中国の医療事情を考慮して武漢に移転した。
1. 名称
○中国語表記:华中科技大学同济医学院附属同济医院 武汉同济医院
○日本語表記:華中科技大学同済医学院附属同済医院 武漢同済医院
○英語表記:Tongji Hospital, Tongji Medical College of HUST
「同済」は、ドイツ(Deutsh)を上海語の音表記で示したものであり、また兵法書・孫子にある「同舟共済」にも由来する。「同舟共済」は、「呉人と越人は互いに憎みあっていても、同じ舟で済(わた)っていて風に遇えば左右の手のように助け合う」との意味で、同じ課題を持つ者同士として協力することを示したものである。日本語では、同じ孫子から引用した「呉越同舟」がそれに近い。
2. 所管
湖北省武漢市に本部を有する華中科技大学(华中科技大学、Huazhong University of Science and Technology、HUST)の医学部に当たる同済医学院(同济医学院、Tongji Medical College)の臨床病院としての位置づけを有する。
3. メインの所在地
武漢同済医院のメインの建物は、武漢市礄口区解放大道1095号にある。旧漢口市の部分にあり、医学高等教育機関である同済医学院の敷地の南側に位置している。
湖北省は、中国内陸部で中央に位置する省である。淡水湖として2番目に大きい洞庭湖の北にあるため「湖北」という名称がつけられた。
同済医院のある武漢市は湖北省の省都であり、長江と支流の漢江の合流地点に位置し、北京から南に約1,100キロメートル、上海から西に約700キロメートルの位置にある。人口は約1,200万人で、湖北省では最も多い。
清代までは武昌が中心都市であり、その近辺に漢陽、漢口が発展し、武漢三鎮と呼ばれていた。清末の1911年10月に、武昌で武昌起義(武昌蜂起)と呼ばれる兵士たちの反乱が発生し、これが辛亥革命の幕開けとなった。国民政府の時代に、3つの地域が合体して武漢と呼ばれるようになった。
4. 沿革
(1)ドイツ人医師設立の医院が母体
武漢同済医院の母体は、ドイツ人医師エーリッヒ・パウルンが1900年に上海で開設した「同済医院」である。
エーリッヒ・パウルン(Erich Hermann Paulun、埃里希·宝隆)は、1862年にドイツで生まれ、ベルリンで医学教育を受けた後、1888年にドイツ海軍の軍医となった。東アジア海域の砲艦で勤務の後、上海のドイツ領事館付きの医師となった。
パウルンは、当時の中国上海の医療事情が余りにも悲惨なことに胸を痛め、何とかこれを救おうと決意するが、従来受けてきた軍医としての教育ではこれらの病人を救えないと考え、ドイツに戻って外科技術の向上なとを目的としてドイツの病院で研修を受けた後、再び上海に戻って西洋医学による医院の設置を目指した。
そしてパウルンは1900年に、上海のドイツ租界近くに自らの診療所を開いた。これが同済医院の始まりである。
なおパウルンはその後1907年に、中国の医療事情を抜本的に改善するためには中国人医師の養成も急務と考え、ドイツ政府、中国政府、さらには他のドイツ人医師仲間の協力を得て、「上海同済徳文医学堂」を上海に設置した。これが、現在の同済大学の起源である。
その後、パウルンが1909年に上海で腸チフスにかかり死去したため、同済医院はパウルンの名を冠して宝隆医院となった。
(2)日本軍が占領
第二次世界大戦では、日本とドイツは同盟国であったが、1945年5月にドイツが連合国に敗戦となったため、日本軍が宝隆医院を接収し日本陸軍医院とした。しかし、その3か月後には日本も敗戦となり、日本軍は同医院から撤退した。
(3)上海から武漢に移転
国共内戦の後、中国共産党は1949年に同医院を接収し、同済大学医学院の附属医院に復帰させた。
新中国建国後の1951年に、中国政府は大学学部再編政策である院系調整に合わせ、中部南部地区にある湖南省、湖北省、広東省、広西省、河南省、江西省の医療・健康サービスを強化するため、同済大学医学院と同済医院を上海から武漢に移転させることを決定した。
医学院と医院の移転は、1955年まで4年間かけて実施された。
同済大学医学院は、1951年に元々武漢にあった武漢大学医学院と合併して中南同済医学院となり、さらに1955年には武漢医学院に、1985年には同済医科大学となった。その間、同済医院はこれら高等医学教育機関の臨床医院であり続けた。
同済医科大学は、2000年に華中理工大学及び武漢都市建設学院と合併し、華中科技大学同済医学院となった。これに伴い、同済医院も華中科技大学同済医学院の臨床医院となった。
5. 分院の有無
武漢同済医院のHPによれば、同医院は本部以外に次の3つのサイトを有している。
○光谷院区(中德友好医院):武漢市東湖新技術開発区高新大道501号
○中法新城院区:武漢市蔡甸区新天大道288号
○軍山創新基地:武漢市経開区硃山路与川江池四路交滙处
6. 規模など
(1)規模
ウィキペディアなどによれは、同医院の規模は次の通りである。
○病床数:全体で約2,500床
○スタッフ:研究スタッフを含め約4,500名
○その他:年間外来患者数約255万名、退院者数約8万名、手術件数約4万件
(註)病床数を日本と比較すると、2021年7月時点で日本最大のベッド数を有するのは愛知県豊明市にある藤田医科大学病院の1,435床であり、東京では東京大学附属病院が1,226床を有し日本第3位である。
東京大学付属病院の職員数を見ると、全体で4,273人(2023年4月現在、短時間有期雇用職員等を含む)となっている。
東京大学付属病院の外来患者数は、2023年一年間で64.1万人、救急患者数1.2万人、手術件数は1.2万件、新入院患者数は2.7万人である。
(2)科学研究施設
武漢同済医院は、次の国家的な施設を有している。
○産婦人科国家臨床医学研究中心(妇产疾病国家临床医学研究中心)
(3)評価
復旦大学の医院管理研究所による中国医院ランキング(2022年)での評価は次の通りである。ランキング全体は、こちらを参照されたい。
○総合順位:満点が100点のところ、39.363点で全国6位 1位は北京協和医院で95.301点
○医療評価:満点が80点のところ、24.982点で全国7位 1位は北京協和医院で80点
○学術評価:満点が20点のところ、14.414点で全国5位 1位は四川大学華西医院で20点
7. 特記事項~もう一つの同済医院・上海市同済医院
ドイツ人医師パウルンにより開設された同済医院は現在武漢にあるが、中国にはもう一つ同済医院と名のつく著名な医院が上海に存在する。
パウルンが、1907年に中国人医師を養成するために開設した「上海同済徳文医学堂」は、その後工学部などを設置して1927年に国立同済大学となった。
日中戦争中は戦火を逃れて西部の雲南省や四川省に疎開していたが、日本軍の敗戦とともに上海に戻り、理、工、医、文、法の5学部を有する同済大学として復活した。この時点で、同済医院の再建もなされ、同医院は医学院附属の臨床医院であった。
ところが、すでに述べたとおり新中国中央政府の方針で、同済医学院及び同済医院は、西部・湖北省武漢に移転することが決定され、同済大学はこの時点で医学院及び医院を失うことになった。
しかし、上海の人達は同済大学医学院及び同済医院に対する愛着を強く持ち続け、なんとか上海に同済の名を冠した医学院と医院の再建を望んだ。
2000年に旧同済大学と上海鉄道大学が合併することになるが、その際上海鉄道大学が有していた医学院の名称を同済大学医学院とし、さらに上海鉄道大学の臨床医院であった甘泉医院を同済大学附属同済医院とした。この同済大学附属同済医院は、武漢の同済医院に対し、上海市同済医院と呼ばれている。
参考資料
・華中科技大学同済医学院附属同済医院HP https://www.tjh.com.cn/
・華中科技大学同済医学院HP http://www.tjmu.edu.cn/xygk/xyjj.htm
・同済大学医学院HP https://med.tongji.edu.cn/xygk/xyjs.htm
・東京大学付属病院HP https://www.h.u-tokyo.ac.jp/