はじめに

 葉篤正(叶笃正)は、シカゴ大学に留学後に中国科学院で東アジアの大気循環などを研究して中国気象学の基礎を築き、国家最高科学技術賞などを受賞した。

葉篤正の写真
葉篤正 百度HPより引用

生い立ちと教育

 葉篤正(叶笃正、Duzheng Ye)は、1916年に天津市に生まれた。父は清朝の地方役人であり、1911年の辛亥革命で清が滅亡してからは実業家に転じた。父は三度結婚して16人の子供をもうけ、葉篤正は7番目であった。葉篤正の兄弟には、政治家や学者として名を成したものがいた。

 葉篤正は小さい頃から私塾に通い、14歳となった1930年に地元天津市の名門中学である南開中学に入学した。
 南開中学は、1895年の日清戦争敗北を受けて日本の教育制度を参考に1904年に開校した中学校(日本の高校教育も含まれる)であり、新中国となってから国務院総理を務めた周恩来が、日本に留学する前の1917年に卒業している。

清華大学に入学し気象学を志す

 葉篤正は学生運動に積極的に参加して南開中学校当局から目を付けられたが、1935年に何とか卒業して北京の清華大学に入学した。清華大学では、卓球場で出会った3歳年上の銭三強と友人となった。銭三強と話し合ううちに、元々好きだった物理学でなく気象学をめざそうと思うようになった。

 1937年に日中戦争が勃発し、日本軍が北京を占領したため、清華大学は北京大学や南開大学とと共に、西部への疎開を余儀なくされた。葉篤正は、三つの大学の連合体である国立西南連合大学の学生として、雲南省昆明に移動し、勉学を続行した。

 葉篤正は、1940年に国立西南連合大学を卒業して学士学位を取得し、やはり日中戦争の戦火を避けて貴州省遵義に疎開していた浙江大学の大学院に入学した。
 葉篤正は、1943年に浙江大学から修士学位を取得し、南京から重慶に疎開していた中央研究院気象研究所(現在の中国科学院地質・地球物理研究所)の補助研究員となった。所長は、浙江大学学長であった竺可楨が兼務していた。

竺可楨の写真
葉篤正が務めた気象研究所所長の竺可楨

米国に留学

 葉篤正は、中国政府の資金を得て1945年に米国に赴き、中西部のイリノイ州にあるシカゴ大学に留学した。同大学では、気象力学の権威であったカール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Arvid Rossby、1898年~1957年)に師事した。

 葉篤正は、「大気エネルギーの分散伝播(关于大气能量频散传播)」という論文をまとめ、1948年に博士学位を取得した。

 葉篤正は、博士学位取得後、引き続きロスビー教授の下に留まり、ポスドク研究を行った。

帰国して中国科学院地球物理研究所へ

 葉篤正は、中華人民共和国が1949年10月に建国されたのを聞いて帰国を決意し、翌1950年に北京に戻り、中国科学院地球物理研究所の職員となった。この地球物理研究所は、中央研究院気象研究所が共産党政権の接収により設立されたものであり、初代所長はドイツ・ベルリン大学に留学経験を有する趙九章であった。

趙九章の写真
趙九章

 葉篤正らは1953年に、東アジアの大気循環の急激な変化の概念を提唱し、急激な気候変動の問題に関する体系的な研究を開始した。葉篤正らの研究成果は、東アジアの気象問題を研究する上で重要な資料となり、中国の気象予報に重要な基礎を築いた。

 さらに葉篤正らは1957年に、冬季に高原の北側と南側に偏西風ジェット気流が2つあることを初めて発見し、それが東アジアの大気循環と気候変動に重要な役割を果たしていることを明らかにした。そして、高原が大気にとって夏は熱源、冬は冷源であるとの仮説を提唱した。これらの成果により、大規模な地形熱影響の概念が国際的に受け入れられ、青海・チベット高原の気象学の科学的基礎が築かれた。

 1966年1月、中国科学院は気象研究を強化する目的で、地球物理研究所から気象研究関連部門を分離して、大気物理研究所を直属機関として設置した。所長は、趙九章・地球物理研究所長が兼務した。

文化大革命で迫害を受ける

 1966年に文化大革命が開始されると、葉篤正は大きな試練に直面した。

 大気物理研究所の初代所長であり、その後両弾一星政策に深く関わって人工衛星の開発の中心にいた趙九章が、1968年の春節後に革命派から労働改造という名目で迫害を受け、同年10月その屈辱の中で毒をあおいで自殺した。61歳の悲劇的な死であった。

 また、葉篤正本人にも迫害の手が迫った。「ブルジョア反動学界の権威」であり「国民党のスパイ」として革命派の批判と迫害の対象となった。長年保存されていた学術資料は破棄の対象となり、本人も妻と共に河北省に下放された。下放期間中に長男が北京で結婚したが、葉篤正夫妻は北京に戻ることができなかった。

復帰して多くの賞を受賞

 文革が終了すると、葉篤正は研究活動に復帰し、1978年には大気物理研究所の第3代所長に就任した。62歳という高齢での就任であった。1981年には、大気物理研究所の所長を退任し、上部機関である中国科学院本部の副院長に就任し、1985年まで務めた。

 葉篤正は1980年に、中国科学院学部委員(現在の院士)に当選した。

 葉篤正は1987年に、国家自然科学賞一等賞を筆頭研究者として受賞した。受賞理由は、「東アジアの大気の環流(东亚大气环流)」に関する研究であった。

 葉篤正は2003年に、国際気象機関賞(International Meteorological Organization Prize、IMO賞)を世界気象機関(WMO)から受賞した。

 葉篤正は2005年に、国家最高科学技術賞を受賞した。国家最高科学技術賞は、2000年に設置された中国最高の科学技術賞であり、日本の文化勲章に近く、国家主席により授与される。葉篤正は、当時の国家主席であった胡錦濤より受賞している。

葉篤正の国家再興科学技術賞の受賞
葉篤正(右)の国家最高科学技術賞受賞 百度HPより引用

 葉篤正は、2013年に北京で亡くなった。享年97歳であった。

参考資料

・中国気象局HP 天地万象 笃正风华—追记我国现代气象学主要奠基人之一叶笃正 https://www.cma.gov.cn/2011xzt/2013zhuant/20131017/2013101708/202111/t20211104_4198962.html
・网易新聞HP 叶笃正 https://www.163.com/money/article/9BS567TN00253B0H.html