はじめに

 銭三強は、両弾一星政策において、原爆と水爆の核兵器開発を総括した。両弾一星政策は、毛沢東や周恩来らの発案の下、軍人出身の政治家である聶栄臻が総括指揮を、現場の指揮を銭三強が執った。

銭三強の写真
銭三強 百度HPより引用

生い立ちと教育

 銭三強(钱三强)の父親である銭玄同は、著名な言語学者であり教育者であった。銭玄同は、銭三強が生まれる前の1906年に日本の早稲田大学に留学し、教育学を学んでいる。帰国後、北京大学などで教鞭を執るとともに、文字改革を掲げる「新文化運動」の中心人物として活躍した。

 銭三強は1913年に浙江省紹興に生まれ、生後すぐに北京高等師範学校の教師となった父に従って北京に移った。1929年に父が教授を務める北京大学理学部の予科に入った。1932年に予科を卒業した後、同じく北京にある清華大学に移った。同校では、呉有訓の核物理を中心とする近代物理学に関心を持った。清華大学を1936年に卒業した銭三強は、北平研究院物理研究所に入り、所長の厳済慈の助手となって、分子スペクトルを研究した。

フランスへの留学、何沢慧との結婚

 1937年に盧溝橋事件が勃発し日本軍が北京を占領したため、所長の厳済慈は銭三強にフランスへの留学を勧めた。厳済慈も1923年から1937年までフランスに留学していたのである。

 銭三強は、パリのソルボンヌ大学に入り、キュリー夫人の娘で前々年の1935年にノーベル賞を受賞していたイレーヌ・ジョリオ・キュリーとその夫のフレデリック・ジョリオ・キュリーの指導を受けて、アルファ線の研究を行った。そして、「アルファ線とプロトンの衝突」と題した論文を完成し、これにより1940年に博士号を獲得した。

 銭三強は、その後もパリに留まり、キュリー研究所で研究を継続していたが、1946年にたくけい(何泽慧)と結婚する。何沢慧は、実業家である何澄の娘として、1914年に江蘇省蘇州に生まれた。父親の何澄は1901年に日本に留学し、新宿にあった東京振武学校を経て、陸軍士官学校を卒業して帰国し軍人となったが、何沢慧が生まれた頃は軍務を離れ蘇州で織布工場を経営していた。何沢慧は、清華大学で銭三強と同級生であり、1937年に銭三強と同様に清華大学を卒業してドイツのベルリン工科大学に留学し、1940年に博士号を取得した。その後、ベルリンやハイデルベルグなどで研究を続行していた。

帰国し原子力研究所を設立し、核兵器の開発に従事

 1948年に、銭三強は妻の何沢慧、長女の銭祖玄とともに中国に帰国した。帰国後は、夫妻の清華大学時代の恩師・呉有訓とともに原子力研究を行う研究所の設立に奔走し、新中国建国後に設立された中国科学院近代物理研究所(現在の中国原子能科学研究院)の副所長となった。所長は呉有訓であり、夫人の何沢慧も研究員となった。その後、呉有訓が中国科学院副院長に昇格したため、銭三強は1951年から同研究所の所長となり、以降文革終了後の1978年まで務めている。

フランスから帰国途上の銭三強、何沢慧と長女の銭祖玄
フランスから帰国途上の
銭三強、何沢慧と長女の銭祖玄

 銭三強は、1956年に設置された原子力工業と核兵器開発を所管する「第三機械工業部(後に第二機械工業部と改名)」の技術責任者(副部長)となった。銭三強は、ロシアからの援助により1958年に開始された研究用の原子炉建設に、夫人の何沢慧や部下の鄧稼先とともに参加し、原爆開発のための技術的な研究を進めた。

 1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプノールにおいて、初の原爆実験が無事に成功した。ちなみに、10月16日は銭三強の誕生日であり、原爆実験の成功は実質的に銭三強への51歳の誕生日プレゼントとなった。

文化大革命の勃発と水爆の開発

 銭三強らは続いて水素爆弾の設計作業に従事したが、1965年末に文化大革命が開始される。周恩来は両弾一星政策を担当する研究所の資材や人員を人民解放軍に移転させ、「保護すべき幹部リスト」を作成しスタッフの保護に努めた。周恩来の度重なる庇護の下で両弾一星政策は着実に進められ、銭三強らの努力の甲斐あって、1967年6月にロプノールで中国初の水爆実験が成功した。

 功績を挙げた銭三強・何沢慧夫妻であるが、その後も革命派から「反動学術権威」のレッテルを張られて批判と迫害を受け、1969年の冬に陝西省合陽の「五・七幹部学校」で農業労働に従事させられた。五・七幹部学校とは、中国共産党や政府機関の幹部を農村に下放し、生産労働に参加させて革命意識を高めるために設けられた農場であり、1966年5月7日付で毛沢東が林彪にあてた手紙での指示(五・七指示)の精神に基づくことから、このように呼ばれた。

中国科学院学部制度の改革、晩年

 文革の終了後の1977年に、銭三強は中国科学院の副院長に就任した。銭三強は、中国科学院の学部(現在の院士)の改善に乗り出した。銭三強自身も、学部制度が発足した1955年に学部委員になっていたが、学部委員の老齢化に危機感を抱いていたのである。10年にわたって続いた文革のため新しい学部委員が任命されず、学部委員の平均年齢が73歳まで上昇していた。銭三強は、事務局に命じて新委員の増員を図り、1980年には280名以上の委員を新たに任命し、平均年齢を65歳まで引き下げた。

 銭三強は、その後も中国科学技術協会副会長、中国物理学会会長、中国原子力学会名誉会長などを歴任したが、1992年に病を得て79歳で亡くなった。1999年の両弾一星功勲奨章叙勲では、銭三強も追叙されている。

 長い間苦楽をともにした夫人の何沢慧であるが、結婚後も物理学の研究を続行し、中国科学院原子能研究所副所長や高エネルギー物理研究所副所長などを務めている。特に宇宙線の研究に没頭し、彼女の発案で高地チベットに観測施設が設置された。1980年には、中国科学院学部委員(院士)に当選している。1992年に夫銭三強を看取った後も宇宙線の研究を続け、2011年に97歳で亡くなっている。

参考資料

・中国科学院60周年HP 銭三強  http://60yq.cas.cn/zgkxyyldyx/gxjzhdz/qsq/
・「钱三强 - 简介」 http://www.gerenjianli.com/Mingren/03/7rb636cn8g2tog5.html
・「那年今日丨中国的“原子弹之父”钱三强诞生」https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_1826576
・王鸿生「领军科学家:钱三强 钱学森 赵九章」中国科学技術出版社 2012年