はじめに

 趙九章は、中国における気象学や地球物理学の基礎を打ち立て、さらに両弾一星政策の中で人工衛星の開発を指揮して「中国人工衛星の父」と呼ばれた。

趙九章の写真
趙九章

生い立ち、教育、ドイツへの留学

 趙九章ちょうきゅうしょう(赵九章)は、1907年河南省開封の中国医学(漢方)を生業とする家に生まれた。

 趙九章が12歳となった1919年に北京で五・四運動が発生したことから、科学救国を志して1922年河南省の欧米留学予備校(現河南大学)に入学した。1925年には浙江省杭州にある浙江工業専科学校(現浙江大学)電気工学科に入り、1929年に同校を卒業して北京の清華大学の物理学科に入り、1933年に卒業した。

 趙九章は、1934年に庚款留学生試験に合格し、翌1935年にドイツのベルリン大学に留学した。同大学ではハインリッヒ・フォン・フィッカー教授の下で気象学を専攻し、1938年に博士号を取得の後、中国に帰国した。

気象学者、地球物理学者として

 帰国した中国では、前年に始まった日中戦争で北京が日本軍に占領され、母校の清華大学も北京大学などとともに西南連合大学を組織して、大陸西部の雲南省に疎開していた。趙九章は、西南連合大学で教鞭を執るとともに、物理学や数学を気象学に応用する気象力学の研究を開始した。気象力学とは、流体力学や熱力学の方程式を用い、気象状態の予測を行うものである。

 1941年に趙九章は、先輩気象学者の竺可楨の推薦により中央研究院気象研究所研究員を兼務し、気象学の研究を続けた。併せて中央大学(現在の南京大学)でも気象学を教えた。1946年に気象研究所の所長となった趙九章は、西南連合大学の教え子でありスウェーデンのストックホルム大学で気象学を学んで1950年に帰国したしんちょう(後の中国科学院大気物理研究所所長)とともに、気象予報の数値化研究を行った。この研究は、現在の計算機を用いた気象予報に発展していく。

 中央研究院気象研究所は、新中国建国後の1950年に、他の地震や地磁気の研究所と統合されて中国科学院地球物理研究所となった。趙九章はこの地球物理研究所の初代所長となり、気象学の研究を続行するとともに、気象学の手法を地球物理学の他の分野の研究に応用していく。特に力を注いだのは、磁気嵐などの研究を伴う宇宙空間物理であった。趙九章らのチームは、1957年に太陽の磁気が地球に与える影響などを観測するために設定された第1回国際地球観測年に中国を代表して協力し、上海や北京に地磁気観測台を設置した。

 これらの気象学や地球物理学での功績により、1955年に趙九章は中国科学院の学部委員(現在の院士)に推挙された。

両弾一星政策に参画

 1958年、両弾一星政策による衛星開発の準備組織として、中国科学院に「581組」が設置され、同組の組長に銭学森、副組長に趙九章が任命された。趙九章は、代表団を組織してソ連を訪問し、関係の施設の見学・交流や技術協力をソ連側に申し入れたが、これらはほとんど実現できなかった。このため帰国後、趙九章らは自力での衛星開発を決断した。

 581組は当初数十人の規模で発足したが、1964年末には400名の人員を擁する規模となり、趙九章はこれらスタッフとともに、高層観測用ロケットの開発と打ち上げ、超高層物理学、スペースチェンバーの開発などを実施し、着実に人工衛星の開発を進めた。

 1964年10月、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが打ち上げられ、中国は両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。以降、銭学森らはこのミサイル技術を発展させて、趙九章らが開発する人工衛星を運搬できるロケットの開発を目指した。

 1965年には、これまでの人工衛星の開発とその運搬手段であるロケットの開発の進捗状況を元に、国防科学技術委員会と中国科学院で議論が進められ、同年末には、打ち上げ時期を1970年とすること、衛星は直径1メートルの72面体の近球形とすること、軌道上で毛沢東や共産党を讃える歌である「東方紅」を発信すること、衛星名を「東方紅1号」とすることなどが決定された。この決定を実施するため、翌1966年1月に中国科学院に衛星設計院(「651設計院」)が設置され、趙九章が同院の院長に任命された。

 趙九章は、衛星の正確な軌道を計算するため中国科学院の数学研究所に、また軌道上の衛星の位置を観測するため中国科学院の紫金山天文台に、それぞれ協力を求めた。さらに、衛星の電装、構造、温度制御などの課題を着実に解決し、1968年2月には東方紅1号のプロトタイプを完成させた。

文革での迫害と名誉回復

 ところが1966年頃から文化大革命が本格化し、衛星開発チームにも革命派の魔の手が及び始めた。周恩来は中国科学院の東方紅1号の開発チームを人民解放軍傘下の組織に移管して、引き続き衛星の開発を続行させた。しかし、趙九章は1968年の春節後に革命派から労働改造という名目で迫害を受け、同年10月その屈辱の中で毒をあおいで自殺した。61歳の悲劇的な死であった。

 趙九章の死にひるむことなく東方紅1号の開発は続けられ、1年半後の1970年4月に長征1号ロケットにより打ち上げに成功した。これはソ連、米国、フランス、日本についで世界で5番目の人工衛星打ち上げであった。

 1976年10月、四人組の逮捕をもって文化大革命は終結したが、趙九章の汚名が雪がれたのは、趙九章の死から10年後の1978年のことであった。1999年、開発関係者に対し、両弾一星功勲奨章が授与され、趙九章もその一人として追叙されている。悲劇的な自殺から31年後のことであった。

参考資料

・中国科学院地质与地球物理研究所HP 「赵九章——中国人造卫星事业的奠基」
http://www.igg.cas.cn/zhuantilanmu/zhuanti_satellite/201106/t20110630_3298357.html
・王鸿生 「领军科学家:钱三强 钱学森 赵九章」中国科学技術出版社 2012年