はじめに

 周光召は、両弾一星政策で核兵器の設計に従事し、後に中国科学院の第4代院長に就任した。中国科学院院長としても、百人計画の実施などで成果を上げた。

周光召の写真
周光召 百度HPより引用

生い立ちと教育

 周光召は、1929年に湖南省長沙に生まれた。父の周風九は道路建設工学の技術者で、フランスやドイツへの留学経験を有した知識人であった。日中戦争が始まったため、家族で四川省に移りそこで基礎教育を受け、第2次大戦終の1946年に清華大学の物理学科に入学した。1951年に清華大学を卒業の後、北京大学大学院に移り理論物理学を専攻し、1954年に卒業して、同大学の教師となった。

ソ連に派遣後、両弾一星に従事

 1956年にソ連と中国を含む東側諸国の合同研究所としてドゥブナ合同原子核研究所が設立され、王淦昌が副所長で派遣されたが、周光召も、翌1957年に同研究所に派遣され、研究業務に従事した。

 周光召は、1961年に帰国して第二機械工業部に所属し、銭三強鄧稼先らの指導の下、中国初の原子爆弾の設計に従事した。1964年、中国初の核実験予定日の前日に、実験場所ロプノールから突然電報が北京の周光召らの元に届いた。原爆の材料で、不純物が設計許容値を超えていることが判明したというものであった。周光召らは徹夜で確認の計算を行い、不純物の設計値越えによる失敗の確率は一万分の一未満であることを突き止め、上層部に報告した。核実験は予定通り実施され、無事成功した。その後は、于敏らと水爆の開発にも当たっている。

中国科学院院長に就任

 周光召は1979年に、中国科学院理論物理研究所に移り、副所長、所長を務めた。1980年に中国科学院学部委員(現在の院士)に当選し、1984年に中国科学院副院長に就任した後、1987年から院長に就任した。郭沫若、方毅、盧嘉錫に続く第4代目院長であった。

 周院長の時代は、1991年の第2次天安門事件、1992年の鄧小平「南巡講話」など中国の政治経済体制が大きく変化した時期である。この時代背景を受けて、人員削減及び機構の簡素化、効果と利益の向上、業務姿勢の改善など、中国科学院の抜本的な改革を進めたことが、周院長の大きな功績である。さらに、1993年に従来の学部委員の名称を中国科学院院士に変更するとともに、1994年から国内外の優秀な人材確保を目的として「百人計画」を実施するなどした。

 1997年に院長を退任した後は、中国科学技術協会主席、全国人民代表大会副委員長などを務めて、2007年には現役を引退している。

参考資料

・「我们认识的光召同志:周光召科学思想科学精神论集」科学出版社 2010年
・中国科学院理論物理研究所HP http://www.itp.cas.cn/ztlm/zszt/ztzgz/202208/t20220822_6502343.html