概要

 南開大学 (南开大学、Nankai University) は天津市にあり、歴史を有する総合大学である。長く国務院総理を務めた周恩来が在籍した大学であり、また多くの優れた科学者を輩出している。

南開大学の主楼
南開大学の主楼 同大学HPより引用

1. 名称と所管

(1)名称

・中国語表記 南开大学   略称 南开
・日本語表記 南開大学  
・英語表記 Nankai University 略称 NKU

(2)所管

 国務院教育部の直轄大学である。

2. 本部の所在地

 南開大学の本部は天津市南開区衛津路94号にあり、八里台キャンパスと呼ばれている。

 天津市は、北京市、上海市、重慶市ととともに中国に4つある直轄市の1つである。北京から見て約100キロメートル南東に位置し、中国の新幹線である高鉄で30分程度と近い。東に渤海湾を、北に燕山を望む。

 天津は、韻や周の時代から人が住むところであったが、隋の煬帝が大運河を建設した際、南方と北方の交差する場所となり、以降その水運で栄えた。

 天津の人口は、2024年末で約1,364万人であり、中国では第27位である。

 日本から海路で北京に向かう場合、天津港が玄関口であったので、日本にもなじみが深い。例えば、天津甘栗は天津の北にある燕山などの華北地方の栗を砂糖で煮て焼いた栗であり、天津港から日本を含む外国に出荷されたので、天津の名がついている。

天津市の市街写真
天津市市街  百度HPより引用

3. 沿革

(1)南開中学の発足

 天津の教育者により1904年に設置された私立敬業中学堂(敬业中学堂)が、南開大学を含む南開系列の教育機関の始まりである。1907年に天津市南開区に移ったことにより、私立南開中学堂(南开中学堂)と改名した。

(2)南開大学の設立

 1911年の辛亥革命を経て、南開中学は高等教育に拡大するための準備を進め、1919年に南開系列の大学として南開大学を設置した。なお南開系列として、その後1923年に女子中学、1928年に小学校を設置している。

 南開大学設置時の学部は、文、理、商の3つであった。大学の理念として「文により国を治め、理により国を強くし、商により国を富ます(文以治国、理以强国、商以富国)」を掲げた。

 大学開設時に、南開中学卒業生で日本に留学していた周恩来(後の中華人民共和国国務院総理)が、新入生として入学している。

南開大学の最初の入学式
南開大学の開学式(1919年)最後列の左端が若き日の周恩来 南開大学HPより引用
南開大学主楼前の周恩来像
南開大学の主楼前の周恩来像 
同大学HPより引用

(3)西部への疎開と国立西南連合大学

 1937年7月に日中戦争が勃発し、北京市や天津市は瞬く間に日本軍に占領され、南開大学も建物などに大きな被害を受けた。このため南開大学は、北京大学清華大学と共に内陸部にある湖南省長沙に移動し、「国立長沙臨時大学」を開校した。

 日本軍は1937年11月に上海を占領し、12月に南京を占領した。このため、臨時大学はさらに大陸西部への移動を余儀なくされ、1938年5月「国立西南連合大学」を雲南省昆明で開校した。

西南連合大学校舎風景
西南連合大学の校舎風景 百度HPより引用

 1945年8月、日本の敗戦に伴い第2次世界大戦が終結し、3大学はそれぞれ元のキャンパスに復帰した。南開大学も天津に戻り、1946年に教育研究活動を再開した。
 南開大学はこの時点で、文学院、理学院、政治経済学院、工学院の4学院(学部)を有していた。

(4)院系調整

 1949年1月、人民解放軍は天津を解放し、南開大学も中国共産党の支配下に置かれた。同年10月に中華人民共和国が建国されると、南開大学は引き続き国立の大学として維持された。

 1952年に、中国全土で大学学部の再編政策である院系調整が実施された。
 この院系調整により、南開大学工学院は天津大学に、天津大学数学科と物理学科は南開大学に、フランス系キリスト教団体が設立した大学である津沽大学(Université de Tsin Ku)の貿易学科、会計学科、企業管理学科は南開大学に、それぞれ移管された。この結果、南開大学は工学系を失い、理学と人文社会学を中心とした大学に再編された。

 1958年に、貿易、会計、金融、財政、統計などの経済管理関連学科は南開大学から切り離され、華北財経学院(河北财经学院、現在の天津財経大学)が新たに設置された。

(5)総合大学へ復帰

 文化大革命終了後、南開大学は院系調整で失った学部学科を徐々に回復していく。具体的には、経済学、技術科学、生命科学、管理科学などの学部学科を再建した。

 1993年には、医学院を設置した。

 1994年には、対外経済貿易合作部の所管であった天津対外貿易学院を統合した。

4. 規模

(1)規模のデータ

 南開大学は、中国の主要大学の中では比較的小ぶりである。具体的な数値で見たのが下表である。

 南開大学中国第1位の大学 
学部学生数16,902名(77位)鄭州大学 47,000名詳細データ
大学院生数15,697名(38位)中国科学院大学 57,375名詳細データ
専任教師数2,245名(47位)吉林大学 6,506名詳細データ
総予算60.52億元(37位)清華大学 362.11億元詳細データ
留学生数約2,000名(18位)北京大学 6,857名詳細データ

(2)キャンパス

 南開大学は、本部のある八里台キャンパスのほか、天津市内に津南キャンパス、泰達(泰达)キャンパスを有している。

(3)学部

 南開大学は、政府の教育部が定めている12の大分類(日本の大学の学部に相当)について、芸術や農学を含めて全てを有する総合大学である。

(4)双一流学科建設

 中国は2017年に、国内の大学とその学科を21世紀半ばまでに世界一流とすることを目標とする政策(双一流政策)を開始した。2022年に改訂された双一流学科建設において、南開大学は全体で以下の6学科が選定されている。理学関係が強い大学である。
  ○人文社会科学(2) 応用経済学、世界史
  ○理学系(3) 数学、化学、統計学
  ○工学系(1) 材料科学・工学

(5)附属医院

  南開大学医学院のHPによれば、同院は次の附属医院、教学医院、臨床医院を有している。
  ・天津解放軍第254医院—南開大学医学院附属医院
  ・中国医学科学院血液学研究所血液病医院—南開大学医学院教学医院
  ・天津市第一中心医院—南開大学医学院臨床医院
  ・天津市小児科医院—南開大学医学院教学医院
  ・天津市第三中心医院—南開大学臨床医院
  ・天津市口腔医院—南開大学口腔医院
  ・中国人民解放軍総医院—南開大学教学医院
  ・天津市人民医院—南開大学人民医院
  ・天津市眼科医院—南開大学眼科医院

5. 研究開発力

(1)研究開発力のデータ表

 南開大学の研究開発力を、データとして示したのが下表である。
 このうち、SCI論文数とはラリベートアナリティックス社のデータによる論文数、Nature Indexとは世界トップクラスの科学誌・学会誌掲載の論文数による指標、NSFCの面上項目予算の獲得額である。国家重点実験室は下記(2)も参照。

 南開大学中国第1位の大学 
SCI論文数44位中国科学院大学詳細データ
Nature Index12位中国科学技術大学詳細データ
国家重点実験室数2か所(23位)清華大学 13か所詳細データ
双一流学科建設数6学科(19位)北京大学詳細データ
NSFC面上項目予算31位上海交通大学詳細データ

(2)国家重点実験室

 南開大学にある2か所の国家重点実験室は、次の通りである。
  ・元素有機化学国家重点実験室
  ・薬物化学生物学国家重点実験室

6. 国内および国際的な評価

 中国の国内と国際的な評価を示したのが下表である。国内では国務院教育部と中国校友会、国際では英国のQS(Quacquarelli Symonds Limited)とTHE(Times Higher Education)のランキングを示した。また、卒業生の中での傑出科学技術人材数の校友会ランキングも、併せて示した。
 これで見ると南開大学は、中国国内や国際的なランキングで主要大学中10位から20位前後にある。

 南開大学中国第1位の大学 
軟科ランキング23位清華大学詳細データ
校友会ランキング11位北京大学詳細データ
QSランキング世界377位  中国21位北京大学詳細データ
THEランキング世界201-250位 中国14位清華大学詳細データ
校友会傑出人材15位北京大学詳細データ

7. 特記事項

(1)鄧穎超~周恩来夫人

 周恩来の科学技術に関わる半生については、こちらを参照していただきたい。ここでは、天津で出会い生涯を共にした夫人・鄧穎超(邓颖超)とのエピソードを述べる。

鄧穎超と周恩来の写真
鄧穎超と周恩来 百度HPより引用

 周恩来は、1898年に江蘇省淮南市に生まれ、1913年に南開中学に入学した。一方の鄧穎超は、1904年に現在の広西チワン族自治区南寧市に生まれ、1916年に天津にあった直隶第一女子師範学校に入学した。二人の中学生は演劇のサークルで知り合ったとの記事もある。
 周恩来は、1917年に南開中学を卒業し、日本への留学に旅立った。日本での留学が希望通りとならなかった周恩来は、南開大学開学の知らせを聞いて、1919年4月に日本から天津に戻った。

 ところが、南開大学が開学する前の同年5月、第一次世界大戦のパリ講和会議でのベルサイユ条約内容とそれに対する政権の対応に強く反発した北京大学の学生らは、天安門広場で抗議集会を開いた後、条約反対や親日派要人の罷免などを要求し、数千人の規模で抗議活動を行った。
 これがいわゆる五・四運動であり、天津にも波及して学生を中心に同運動が展開され、周恩来はその指導者となった。鄧穎超も、女子師範学校の他の生徒らと「天津女界愛国同志会(天津女界爱国同志会)」を結成して、同会の幹部となった。同年9月にはより大きな団体である「覚悟社(觉悟社)」が結成され、周恩来と鄧穎超は同社の幹部となった。

覚悟社の写真
1920年の覚悟社幹部写真 前列右から三人目が鄧穎超、後列右端が周恩来 
中国国家博物館 编纂《中国共産党90年図集》上卷 上海人民出版社

 その後9月に南開大学が開学し、同大学に入学した周恩来であったが、翌年1月逮捕された。7月に釈放されたが大学には復学せず、勤労学生としてフランス・パリに渡った。鄧穎超は、女子師範を卒業して北京で小学校の先生となったが、フランスに渡った周恩来とは手紙やはがきをやりとりしていた。そして、パリから帰国した周恩来は、1925年に広州で鄧穎超と結婚した。

 鄧穎超は、周恩来とともに共産革命の成就に尽力し、中華人民共和国建国後は総理となった周恩来を支え、また自らも共産党幹部として国政に関与した。

(2)錚々たる卒業生

 南開大学は、これまで優れた科学者を多く輩出している。代表的な人物を挙げる。

・呉大猷(吴大猷、Ta-You Wu、1907年~2000年)は、南開大学を卒業して米国ミシガン大学に留学し、北京大学などで教鞭を執り、ノーベル賞学者の楊振寧李政道がを育てた。晩年は台湾に移り、台湾の中央研究院の院長などを務めた。詳しくはこちらを参照されたい。

・陳省身(陈省身、Shiing-shen Chern、1911年~2004年)は、南開大学と清華大学を卒業した後、ドイツやフランスで数学を学び、米国カリフォルニア大学バークレー校などで教鞭をとった世界的な数学者であり、微分幾何学の大家であった。詳しくはこちらを参照されたい。

・劉東生(刘东生、Dongsheng Liu、1917年~2008年)は、南開中学、南開大学の疎開での大学である西南連合大学を卒業したのち、黄土高原やチベット高原の地質調査などを行った地質研究者で、国家最高科学技術賞などを受賞している。詳しくはこちらを参照されたい。

参考資料

・南開大学HP https://www.nankai.edu.cn/
・南開大学医学院HP https://medical.nankai.edu.cn/
・維基百科HP 觉悟社
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%89%E6%82%9F%E7%A4%BE
・百度HP 邓颖超
https://baike.baidu.com/item/%E9%82%93%E9%A2%96%E8%B6%85?fromModule=lemma_search-box