はじめに

 陳省身(陈省身、1911年~2004年)は、清華大学を卒業した後、ドイツやフランスで数学を学び、米国で活躍した世界的な数学者であり、微分幾何学の大家であった。

陳省身の写真
陳省身 百度HPより引用

生い立ちと教育、欧州留学

 陳省身(陈省身、Shiing-shen Chern)は1911年に、上海の南西に位置する浙江省嘉興市に生まれた。

 基礎教育を嘉興市で終え、父の転勤に従って1922年に天津に移り、1926年に天津の南開大学の数学科に入学した。1930年に南開大学を卒業し、翌年には北京に出て清華大学の大学院に学んだ。

 1934年に清華大学から修士号を取得した陳省身は、奨学金を得てドイツに留学し、ハンブルグ大学の数学科に入学した。

 1936年に同大学から博士号を取得した陳省身は、奨学金の余剰を頼りにフランスのパリに赴き、パリ大学のエリ・カルタンに師事した。
 カルタンは、リー群、微分幾何学などで大きな業績を残した数学界の巨人の一人である。週一度、対面形式による2人だけの授業が行われ、後に陳省身は「優れた師との対話は10年間の読書にも勝る」と述べている。

中国と米国の往復後、米国に定住

 1937年の夏、陳省身はフランスを離れ、米国を経由して中国に戻り、清華大学数学科の教授となった。日中戦争が始まると、清華大学は北京大学や南開大学とともに雲南省に疎開し西南連合大学を設置したため、陳省身も雲南に移動して同大学の教授として微分幾何学などを教えた。

 1943年には、米国のプリンストン高等研究所から招聘を受けて渡米し、引き続き微分幾何学の研究を行った。
 陳省身は、「ガウス・ボネの定理に関する簡単な証明」と題する論文を発表した。同定理は、微分幾何学において曲面の幾何学と曲面のトポロジーと結びつける重要な定理であり、陳省身は微分幾何学の発展に大きな足跡を残すことになった。

 1946年に中国に帰国したが、国共内戦で中国国内は混乱しており、陳省身は1949年に再び渡米した。短期間プリンストン高等研究所に滞在の後、陳省身はシカゴ大学に移り、数学科の教授となった。

 1960年、陳省身はカリフォルニア大学バークレー校の教授に転任した。翌1961年には米国科学アカデミーの会員となり、また米国国籍を取得した。中国系の米国科学アカデミー会員としては、呉健雄に続く2番目であった。

 陳省身は、バークレーの教授を1980年まで20年にわたって務めた後、独立した非営利の研究機関として1981年にバークレー市に設置された数理科学研究所(MSRI)の初代研究所長となり、1984年まで務めている。
 このMSRIは、世界をリードする数学センターとして広く認められるようになり、現在、世界中から毎年何千人もの一流の研究者が集まっている。

ウルフ賞などを受賞

 微分幾何学での世界的な貢献により、陳省身は米国などで数々の栄誉を得ている。1970年の米国数学会のショフナー賞、1976年の米国国家科学賞、1982年のドイツ・フンボルト賞などである。

 1984年には、イスラエルのウルフ賞数学部門を受賞している。
 ウルフ賞は、ドイツ生まれの発明家のリカルド・ウルフが1975年にイスラエルに設立したウルフ財団によって授与される賞であり、受賞分野は農業、化学、数学、医学、物理学、芸術の6部門である。このうち数学部門は、フィールズ賞と並ぶ著名な賞であるが、フィールズ賞が40歳以下の若手を対象としているのに対し、ウルフ賞には年齢の制限がない。中国系では、陳省身のバークレー時代の弟子である丘成桐(シン=トゥン・ヤウ)が、後に受賞している。

晩年中国に戻る

 1949年に渡米した陳省身が、再び中国大陸の土を踏んだのは1972年であり、当時の郭沫若中国科学院の院長と会談を行った。文革終了後の1977年に中国を訪問した陳省身は、当時の最高指導者である鄧小平とも会談した。

 1984年に鄧小平は、陳省身の母校である南開大学に新たに設置する数学研究所の所長に招聘した。陳省身はこの招聘を受諾し、バークレーのMSRI所長を辞任して中国に戻った。その後1992年までの8年近く、陳省身は南開大学数学研究所長を務めた後、同研究所の名誉所長となった。

 1994年には、中国科学院の外国籍院士となっている。

 2004年、陳省身は病を得て天津で亡くなった。93歳であった。

参考資料

・清華大学校友総会HP 《陈省身传》——数学演绎人生之美 https://www.tsinghua.org.cn/info/1951/18239.htm