中国における高等教育の一大イベントである共通大学入試・高考について、日本国際貿易促進協会が旬刊誌として発行している「国際貿易」の2023年7月15日号に投稿した記事を、一部修正の上で紹介する。
高考(ガオカオ)とは
今回は、中国の大学入試を紹介したい。
毎年6月初旬、中国の大学受験生とその家族、さらには社会全体を巻き込む一大イベントが行われる。それが、「高考(ガオカオ、普通高等学校招生全国統一考試の略語)」と呼ばれる統一入試である。ここで、「普通高等学校」というのは4年制大学の総称である。
中国で北京大学などが設立された時期は、清朝末期の1990年代以降であり、その時期には各大学で個別に入試が実施されていた。中華人民共和国建国後の1952年に、公平性の確保の観点から全国統一入試が実施され、これが高考となった。
文化大革命での中断と鄧小平による復活
ところが文化大革命が始まった1966年に、中国共産党の指示により高考は中断された。大学の活動は革命の意義に反するものとして大幅に制限され、新入生の入学も否定されたのである。
その後文革初期の暴力的な時期が落ち着いた1970年に、毛沢東の指示により優れた労働者・農民・兵士の中から共産党や文革革命委員会などが新入生を選抜する制度が導入された。しかしこの制度では、新入生の質に大きなばらつきが出て、十分な教育効果を達成できなかった。
文革が終了し、復活した鄧小平が真っ先に行ったのが、この高考の復活である。
1977年冬に再開された高考に約570万人が受験したが、文革の影響を受けた大学側の受け入れ体制を考慮して合格者はわずか約27万人(約5%)であった。
翌1978年夏にも高考が行われ、やはり約610万人が受験し、合格者は約40万人(約7%)であった。
10年の空白期間があったため受験者の年齢の幅が大きく、16歳の若者から30歳を過ぎた青年も受験したという。
現在の高考制度
現在の高考の試験科目は国語、数学、外国語の3 科目が必須で、文科総合あるいは理科総合のいずれかを選択する。
高考の試験結果が受験生に通知されると、受験生は予め公表されている各大学の学科の合格最低点と自分の成績を付き合わせ、希望校をリストアップし、応募することになる。
一方日本と違って、高考の結果が出ると大学側も優秀な学生を求めて自らも動く。各省・直轄市ごとにそれぞれ職員数名からなるチームを作り、大学側に通知される受験結果リストを元に、電話による勧誘活動を行う。高考で良い点数を取った生徒を他の大学より少しでも多く取ることが自分の大学の将来を決めるということで、各大学とも必死なのである。
日本では、特定の大学や特定の学科に入学するため、1年や2年の浪人生活を送る受験生も多い。中国でも高考が一発試験であるということから、病気であったり調子が悪かったりして、志望する大学に入れない受験生も出てくる。
しかしこの浪人生の扱いが日本と違い、現役の高校生に比べてペナルティが課せられる。例えば北京大学のある学科の合格最低点が600点とすると、浪人生は610点が最低点となる。受験勉強を一年余計にしているのであるから、ペナルティは当然ということであろうか。
(なお、高考のより詳しい記事はこちらを参照されたい。)
高考の状元と李克強前総理
高考では各地域での各科目の最優秀者を状元と呼ぶ。状元というのは、かつての科挙の最終試験で第一等の成績を収めた者に与えられる称号で、これを高考に転用したものである。
この状元を多く集めた学校が最も高いレベルの大学と言えるが、近年では北京大学と清華大学が圧倒的で、後に続く復旦大学や中国科学技術大学などと一桁違う数字となっている。
前国務院総理であった李克強は1955年生まれであり、文革中の1974年に基礎教育を終えて農村労働に従事したが、22歳となった1977年に高考復活の報を聞いて大学への進学を決意し、復活後初めての高考を受験した。
当初は、学費がかからない師範大学を第一志望とし、合わせて中国最高峰の北京大学を第二志望とした。高考の結果地元の状元となり、北京大学出身の著名な学者からの説得もあって北京大学に入学している。
復活後初の高考で状元を取ったと言うことで、李克強はまれに見る秀才だったのである。
李克強は、2023年10月に心臓発作により死去した。