はじめに

 呉大猷(吴大猷)は、米国ミシガン大学に留学し、北京大学などで教鞭を執り、ノーベル賞学者の楊振寧李政道を育てた。晩年は台湾に移り、台湾の中央研究院の院長などを務めた。

呉大猷の写真
呉大猷 百度HPより引用

生い立ちと教育

 呉大猷(吴大猷、Ta-You Wu)は、1907年に中国南部の広東省番禺(現広州市)に生まれた。
 生家は名家であり、祖父・呉桂丹(吴桂丹)は進士に合格し、清朝の官僚を務めた。父・呉国基(吴国基)も科挙に合格して清朝の官吏となり、洋学を学んでフィリピンに外交官として派遣されたり、吉林省で勤務したりした。

 呉大猷が4歳となった1911年、父・呉国基は流行病にかかって死去した。一家は経済的に苦しくなるが、母の頑張りと叔父の援助で基礎教育を受けることが出来た。
 この時期は、孫文が辛亥革命に成功し清朝が滅亡した時期であり、教育でも大きな変革が始まっていた。長い間続いた科挙の制度は終焉を迎えていたが、西洋流の教育はまだ萌芽期であった。呉大猷が受けた教育も、旧来の四書五経など漢学と西洋流の数学、物理学の教育が混在していた。

 呉大猷が14歳となった1921年、伯父の呉遠基(吴远基)が天津広東旅津中学の校長として、天津に赴任することとなった。呉大猷はこれを契機に、伯父を頼って天津に向かい、天津の名門中学で天津私立南開中学堂に入学した。
 南開中学堂は、1895年の日清戦争敗北を受けて日本の教育制度を参考に1904年に開校した中学校(日本の高校教育も含まれる)であり、新中国となってから国務院総理を務めた周恩来が、日本に留学する前の1917年に卒業している。

南開大学で恩師・饒毓泰と出会う

 1925年、呉大猷は成績優秀であったため、南開中学堂の五年生で、一年飛び級により南開大学に入学する。南開大学は、南開中学堂などの系列学校として1919年に設立された大学で、周恩来は日本から帰国してこの南開大学に入学している。呉大猷は、南開大学で奨学金で優遇される鉱山学科を選んだ。

 呉大猷が南開大学で出会ったのが、物理学科教授であった饒毓泰(饶毓泰)である。
 饒毓泰は、1891年に江西省で生まれ、上海南洋公学(現在の上海交通大学)で学んだ後1913年に渡米し、1917年にシカゴ大学から学士学位を、1921年にプリンストン大学から修士学位を、1922年にやはりプリンストン大学PhD.を取得して帰国し、南開大学の物理学科を設立して学科長になった教育者である。その後も、北京大学や国立西南連合大学などで教鞭を執ったが、文化大革命で迫害に遭い、1968年に北京大学内で首を吊って自殺している。

呉大猷の恩師・饒毓泰の写真
呉大猷の恩師・饒毓泰 百度HPより引用

 呉大猷は当初、饒毓泰の授業が難しく成績が良くなかった。一年飛び級で南開大学に入学したため、十分に中学校で物理を修得していなかったからである。猛勉強の後、呉大猷は師・饒毓泰に認められる成績を挙げるまでになった。

 1926年、南開大学の鉱山学科のスポンサーの実業家が経営難から大学への援助を停止したため、鉱山学科を廃止されることとなった。呉大猷は、鉱山学科での奨学金を当てにしていたため退学の危機に陥ったが、師・饒毓泰の強い勧めで物理学科へ転科した。

 1930年に、南開大学物理学科を卒業した呉大猷は、やはり饒毓泰の勧めで南開大学に残り、物理学や力学を教えた。

米国留学から帰国して北京大学教授に

 呉大猷は、1931年に師・饒毓泰らの推薦で中華教育文化基金から奨学金を得てに米国に赴き、中西部のミシガン大学に入学した。ミシガン大学では分光学を専攻し、1932年に修士学位を、1933年には博士学位を取得した。

 呉大猷は、その後ポスドク研究をミシガン大学で行い、1934年に帰国して北京大学の物理学科の教授に就任した。当時の物理学科の主任は、南開大学から北京大学に移っていた饒毓泰であった。

 1937年に日中戦争が勃発すると、北京大学は北京での教育が出来なくなり、清華大学及び南開大学とともに西部に疎開することになった。呉大猷も、成都の四川大学を経て、雲南省昆明に設置された国立西南連合大学に移り物理学を教えた。

国立西南連合大学では、電磁気学、量子力学などを担当した。この時の教え子に、後にノーベル賞を受賞する楊振寧李政道がいた。 

呉大猷と二人のノーベル賞学者
呉大猷(前)楊振寧(左)李政道(右)

米国とカナダで活躍

 1945年に日本が太平洋戦争に敗北し、日本軍は中国大陸から撤兵した。国立西南連合大学は解散となり、北京大学と清華大学は北京に、南開大学は天津に戻った。しかし、呉大猷は北京には戻らず、米国に赴いて母校ミシガン大学の客員教授となり、その後コロンビア大学に移った。

 1949年、呉大猶はカナダに移り、カナダ国立研究機構(National Research Council)の理論物理学部門の責任者となった。

台湾に戻る

 呉大猷は、1956年に台湾政府の招きで帰国し、国立台湾大学などで物理学の講義を行った。呉大猷はそれ以降、度々台湾を訪れることとなった。
 1962年には、台湾の国立中央研究院の物理研究所の初代所長に就任した。

 呉大猷は、1963年にカナダ国立研究機構を辞職し米国のニューヨークに移り、ニューヨーク州立大学バッファロー校などで教鞭を執った。

 呉大猷は、1978年に台湾に帰国した。1983年には台湾中央研究院の院長となった。前任は、同じ南開中学の卒業生で国立台湾大学の学長も務めた銭思亮であり、また後任はノーベル賞学者の李遠哲である。
 呉大猷は、台湾の中央研究院院長を11年間務め、1994年に退任した。

 2000年、呉大猷は国立台湾大学の附属病院で亡くなった。享年93歳であった。 

参考資料

・呉大猷学術基金会HP 關於吳大猷博士 http://www.phys.sinica.edu.tw/~tywufund/introduction.html
频梦君 吴大猷:两位学生荣获诺贝尔奖,他曾力劝台湾当局放弃核武器计划
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1815480289220033577&wfr=spider&for=pc
・説歴史的女人 中国物理学之父:培养出杨振宁、李政道,照顾病妻52年,高寿93岁
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