はじめに

 梅貽琦は、北京大学と並び称される名門大学である清華大学の基礎を築き、台湾に渡った後も国立清華大学の創設に尽力し初代学長となった。

梅貽琦の写真
梅貽琦 百度HPより引用

生い立ちと教育

 貽琦(梅贻琦、ばいいき、Yi-chi Mei)は1889年に、天津の塩屋の5男として生まれた。15歳となった1904年に、天津敬業学堂(後の南開学堂)に入学した。梅貽琦は、4年後の1908年に同学堂を卒業し、北京の約140キロメートル南西に位置する保定にあった保定高等学校に入学した。

庚款留学生制度と清華学堂

 梅貽琦が保定高等学校の生徒であった時に、中国の高等教育に大変革が生じた。庚款((こうかん)留学生制度の発足である。
 1900年の義和団事件の後、和平のために結ばれた北京議定書で、清朝は当時の国家予算の数倍にあたる賠償金(庚子賠款)の支払いを外国列強に約束させられた。「庚子」とは日本では「かのえね」と読み、西暦の1900年を指す。また「賠款」は、日本語の「賠償」に相当する。この賠償金の支払いが清朝政府・人民を苦しめることになった。
 米国は、賠償金の金額見直しと一部の返還を決定し、その条件として、返還された賠償金を中国人学生の米国への留学費用に充てることを求めた。1909年米国で返還が正式決定されたのを受け、清朝政府は米国への留学生制度を設置した。この制度は、「庚子賠款」の「庚」と「款」を取って、「庚款(こうかん)留学生制度」と呼ばれることとなった。

 また清朝政府は1911年、清朝の庭園であった清華園の敷地の一部に、庚款留学生の準備のための学校として「清華学堂」を設置した。その後辛亥革命が勃発し清朝が滅亡したため、清華学堂は一時的に閉鎖されたが、新政府により再開されるとともに1912年に名称を「清華学校」と改めた。現在の「清華大学」の前身である。

清華学堂
清華学堂

米国への留学と清華大学への奉職

 梅貽琦は、庚款留学生制度の第一回目の学生募集に応じ、優秀な成績で合格した。1910年には、総勢47人の留学生の一人として米国へ渡り、マサチューセッツ州ウースターにあるウースター工科大学に入学し、電気工学を専攻した。4年後の1914年に、同大学を無事に卒業し電気工学の学士号を取得した。

 大学を卒業した梅貽琦は、1915年に中国に戻り、清華学校の英語と幾何学の教員となった。梅貽琦は翌1916年に、清華学校の物理学教授に昇任し、その後1922年に物理学系の主任、1926年には教務長を兼務した。1928年に清華学校は清華大学となったが、梅貽琦は米国に渡り同大学の留学生の監督となった。1931年に滞米中の梅貽琦は清華大学の第3代学長(中国では校長と呼ぶ)に任命され、帰国して同年12月に学長に正式に就任した。

 清華大学の学長となった梅貽琦は、二つの考え方を徹底させた。一つ目は、「大学とは大楼があることではなく大師がいることである」として、優れた教員の選抜と招聘を目指した。二つ目は、執行部の独善に陥ることのないように教授会、評議会と校務会議からなる大学管理体制を構築した。この二つを徹底させたことにより、清華大学は北京大学と並び称される大学に発展していった。

日中戦争時の西南連合大学

 1937年日中戦争が勃発し、日本軍は同年7月末までに北京と天津を占領した。北京市内が日本軍に占領されたため、清華大学では落ち着いて授業をする状況でなくなり、北京大学や天津にあった南開大学とともに3大学合同で、疎開のため内陸部にある湖南省長沙に移動した。ところが日本軍は、1937年11月に上海を、同年12月に南京を占領した。南京が日本軍に占領されたことにより、湖南省長沙に移ってわずか4か月後にさらに大陸奥地にある雲南省昆明に向けて移動し、1938年5月、「国立西南連合大学」を雲南省昆明に開校した。
 国立西南連合大学には校務委員会が置かれ、3つの大学の学長がそれぞれ校務委員会の主任となって校務全体を管理した。梅貽琦は清華大学を代表して、この国立西南連合大学の校務委員会主任となっている。

 1945年に日本が太平洋戦争に敗北すると、梅貽琦は直ちに大学を北京に戻す作業を開始したが、その後国民党と中国共産党との内戦が起こった。1948年末に共産党が北京を占領したことにより、梅貽琦は国民党の飛行機で南下した。さらに1950年に米国に渡り、ニューヨークのマンハッタンにある華米協進社の常務理事となった。

台湾の国立清華大学設立

 米国アイゼンハワー大統領は、1953年末にニューヨークで開催された国際連合総会で、原子力の平和利用に関する演説を行った。これにより米国の関係国への原子力資材供与を伴う原子力協力が開始され、台湾は日本などとともにその恩恵に浴することになった。

 1955年に台湾と米国との間で原子力協力協定が締結され、台湾に原子炉が米国から供与されることを受け、原子力研究の受け皿として新たな機関の設立が急務となった。米国にいた梅貽琦は台湾に渡り、新竹市に原子科学研究科(大学院)を有する「国立清華大学」を設立するために尽力し、初代の学長に就任した。
 さらに1958年、梅貽琦は台湾政府の教育部長に任命され、学長を兼務しつつ台湾の教育全般の舵取りを行った。
 国立清華大学はその後順調に発展し、1962年に数学研究科を設立し、さらに1964年には学部学生を受け入れるなどにより拡大し、現在、国立清華大学は人文系の学科をも有する総合大学となっている。

 1962年5月、梅貽琦は台北市にある国立台湾大学(旧台北帝国大学)附属病院で亡くなった。72歳であった。遺骸は国立清華大学のキャンパスに埋葬され、その墓の名前は「梅園」と呼ばれている。

 中国大陸及び台湾での清華大学への貢献(大陸で1931年~1948年の17年間、台湾で1955年~1962年の7年間)に鑑み、梅貽琦は「清華大学の永遠の校長(学長)」と呼ばれている。

参考資料

・澎湃新闻HP 『梅贻琦:一生清华,一世清白』 2020年 https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_10059870?hotComm=true
・梅貽琦『梅貽琦談教育』千華駐科技出版有限公司 2019年