中国の農業技術開発について、日本国際貿易促進協会が旬刊誌として発行している「国際貿易」の2023年11月15日号に投稿した記事を、一部修正の上で紹介する。

歴代王朝での農業技術開発

 中国は古代以来優れた文明を育んできた地域であり、農業およびその技術開発についても先進的な地域であった。例えば、現在アジアの膨大な人口を育む稲の栽培は、約1万年前の長江流域の湖南省周辺地域を起源と言われている。

 また、中国では天変地異などで飢饉が発生すると、黄巾の乱(後漢末)、黄巣の乱(唐末)、紅巾の乱(元末)、李自成の乱(明末)などが起こり、王朝が弱体化あるいは滅亡していった。このため、中国の歴代王朝では、支配する民の食糧確保が最優先の事項とされ、農業技術やそれを支える暦・天文学が発展した。

新中国での農業技術開発 

 中華人民共和国建国後も、農業の開発と発展は国家の最優先事項であり、「四つの近代化(現代化とも言う)」政策の一部に位置づけられてきた。

 四つの近代化政策が最初に提唱されたのは建国直前に開催された中国人民政治協議会であり、そこで採択された共同綱領に「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める。科学の発見と発明を奨励し、科学的知識を普及させる」と規定された。

 大躍進政策や文化大革命の混乱を経て実権を掌握した鄧小平は、「農業、工業、国防、科学技術の近代化を実現し、我が国を近代的強国とすることは、我が国人民の歴史的使命である」とし、四つの近代化を国の中心政策とした。そして四つの近代化政策は、1982年12月に制定された82憲法で国家の大目標として条文化され、現在に至っている。

 このため現代中国では、農業技術開発は科学技術の重要分野であり続けており、予算的にもしっかり手当てされ、また中国農業大学(北京)、華中農業大学(武漢市)、四川農業大学(成都市)など優れた大学が全国に存在している。

小麦大王・金善宝

 ここでは、新中国建国後に農業科学技術分野で優れた業績を残した二人の人物を紹介したい。

 一人目の金善宝は、1895年に浙江省紹興市で生まれ、南京高等師範学校を卒業した後、米国のコーネル大学とミネソタ大学で学んで帰国し、中央大学(現在の南京大学)農学部教授となった。

 1937年に日中戦争が勃発すると、国内外の3,000に上る小麦品種を研究し、日本軍に占領されていない四川盆地と長江中下流領域に適した品種を選定した。この小麦の品種は、抗日戦線を戦う上で貴重な食糧を提供した。

 さらに新中国建国後の大躍進政策失敗後、中国全土をくまなく歩き、約5,500の小麦品種を収集して研究し、中国の各地方に適した小麦の品種選定を行って食糧事情を好転させた。

 これらの努力の甲斐もあって、現在中国は世界第一位の小麦生産国となっている。現在の小麦栽培の発展に大きく寄与した金善宝は、中国で親しみを込めて「小麦大王」と呼ばれている。

金善宝の写真
金善宝 百度HPより引用

ハイブリッド米開発・袁隆平 

 二人目の袁隆平は、1930年に北京で生まれ、重慶相輝学院(現西南大学)で遺伝育種学を学んで卒業し、農学校の教師となった。当時の中国は大躍進政策失敗後であり、袁隆平は打ち続く飢饉に心を痛め、何とか食糧不足の問題を解決できないか模索を始め、1960年に農学校の試験田でハイブリッド米を発見した。ハイブリッド米とは、稲の品種改良において、雑種第一代に現れる雑種強勢を利用して育種した収穫量の多い米を指す。

 1966年に開始された文化大革命では、袁隆平は批判の対象となり試験田も破壊されてしまったが、研究を続行し1973年に通常のイネより20%も収穫量の多い優良品種「南優2号」を開発した。これらの業績により袁隆平は、国連食糧農業機関(FAO)の食糧安全保障貢献賞、日経アジアアワードなどを受賞し、2004年には農業技術関係のノーベル賞と言われるウルフ賞を受賞している。    

袁隆平の写真
袁隆平 百度HPより引用