はじめに

 趙忠賢(1941年~)中国科学院物理研究所研究員は、中国の超電導研究を牽引してきた科学者である。中国の最高栄誉である国家最高科学技術賞や、国家自然科学賞一等賞など数々の栄誉に輝いている。

趙忠賢の写真
趙忠賢 百度HPより引用

生い立ちと教育

 趙忠賢(赵忠贤、Zhongxian Zhao)は、1941年に現在の遼寧省瀋陽市新民に生まれた。

 当時は、日本の傀儡政権である満州国(中国では「伪满洲国:偽満州国」と呼ぶ)がこの地を支配しており、趙忠賢はその国民として育った。趙忠賢が4歳の頃に日本が敗北して満州国は滅び、8歳となった1949年に中華人民共和国が建国された。

 旧満州の東北地方はソ連の影響力が強く、趙忠賢は当時の科学技術最先進国であったソ連の雑誌などを読んで、科学者への道を夢見た。特に、人工衛星、ロケット、半導体などに興味を持った。

 また、趙忠賢が15歳となった1956年には、周恩来首相が「科学に向かって邁進(向科学進軍)」と言う演説を国民に向けて行った。周首相は、科学が中国の国防、経済、文化の決定的な要素であると強調し、世界科学の急速な発展が中国をはるか後ろに置きざりにしていると述べた。その上で、今後中国は世界の先進的な科学のレベルに追い付かなければならないとした。
 趙忠賢は、この周恩来首相の呼びかけに深く感動し、国のために科学で貢献しようと誓った。

中国科学技術大学を経て中国科学院物理研究所へ

 地元の高校卒業後、鉱物資源探査で国に貢献しようとして地質学での大学進学を目指したが、健康診断で足が扁平足とされ、全土を歩き回る必要のある地質学を断念して、第二志望であった中国科学技術大学の物理学科に応募して、1959年に無事入学を果たした。

 中国科学技術大学は、ソ連科学アカデミーの大学教育への関与を参考として、1958年に中国科学院が開校した大学であり、趙忠賢が入学した当時は紫禁城の西約10キロメートルの北京市西郊外玉泉路にキャンパスがあった。同大学は、現在も中国の主要大学の一つとして、安徽省合肥市にある。

 趙忠賢は、1964年に中国科学技術大学を卒業して、北京市内の中国科学院物理研究所に配属された。 

文革に遭遇、英国に留学

 1965年11月、後の四人組の一人・姚文元(ようぶんげん)による「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した論文を発表し、これが文化大革命の契機となった。翌1966年には、毛沢東の指示によって中央文化革命小組が設置され、北京の青少年によって革命に賛同する組織である紅衛兵が結成された。

 文化大革命の時代は科学技術にとって暗黒時代であり、多くの大学や研究所の幹部が取り調べを受け、つるし上げにあった。反動的とされた人々は、不法に監禁されたり、残酷な拷問を受けたり、自己批判を強要された。

 中国科学院物理研究所に配属されたばかりの趙忠賢も、この文化大革命の荒波に翻弄された。文革の初期には国防の任務を与えられ、その後は赤外線レーダ開発や小型冷凍装置などの開発業務に当たった。

 趙忠賢は、文革の暴虐が少し落ち着いた1972年に物理研究所に戻ることが出来たが、その後いわゆる「五・七幹部学校」に送られた。五・七幹部学校は、政治、軍事、生産、大衆活動、修正主義批判といった総合的知識を身につけるべきだという毛沢東の「五・七指示」に基づいて、党や政府の幹部が農村に「下放」して思想改造を図る学校であった。

 しかし、この五・七幹部学校での経験が、趙忠賢に思わぬ転機をもたらした。1972年2月に米国のニクソン大統領が訪中したのをきっかけとして、中国と西側諸国との交流が少しずつ拡大していった。
 下放などに真面目に対応した趙忠賢は、英国留学の機会を与えられられた。趙忠賢は、1974年2月に英国ケンブリッジ大学の冶金学科に留学し、超電導研究の基礎を学んだ。 

帰国後、超電導材料開発に

 趙忠賢は、ケンブリッジ大学で学んだ後ラザフォード研究所や他の超電導研究所を短期間訪問し、1975年9月にシベリア経由で中国に戻った。

 趙忠賢が帰国した中国では、四人組による文革が依然として続いており、折角英国で学んだ超電導の知識や実験のノウハウを活かす施設や装置がないまま、やむを得ず南京大学や復旦大学などの研究者と連絡を取って理論研究を積み重ねた。

 しかし、1976年暮れには四人組が逮捕され、ようやく文革も終わりを告げて自由な科学研究が可能となった。35歳であった趙忠賢は、物理研究所ではまだ若手であったが、欧米の最先端の研究に触れた経験が高く評価され、同研究所の超電導研究を牽引していくこととなった。

 また、文革期間中に他の大学や研究所の有望な科学者との交流を活かし、超電導に関する全国規模のシンポジウムを開催することが出来た。

液体窒素温度領域の超電導体で成果

 超電導材料の世界的な開発競争は、1986年に大きな転機を迎えた。

 誘電体研究で著名なIBMチューリッヒ研究所のアレックス・ミューラーとジョージ・ベドノルツが、La-Ba-Cu-O系の材料を用いて極低温での実験を行い、それまで知られていたNb-3Geの転移温度が23Kであったのに対して、35Kの転移温度を持つことを発見し、1986年4月にZeitschrift für Physikというドイツの学術誌に論文を投稿した。

 このミューラーらの論文に、世界の超電導研究者が反応した。
 東京大学の田中昭二教授の研究室が追試を行い、1986年11月に超電導を確認し、同年12月に米国ボストンで開催された材料研究学会においてこの結果を公表した。この超電導は、従来より高い温度で超電導の性質を持つと言うことで、高温超電導と呼ばれた。
 これ以降、この高温超電導は一種の学界フィーバーとして、開発競争が世界的に行われ、次々に転移温度の記録が塗り替えられていった。

 趙忠賢の物理研究所のグループもその一つであり、彼らはランタンをイットリウムに置き換えた新しいY-Ba-Cu-O材料を作製し、1987年2月に転移温度93Kの当時の世界記録を達成した。

 これらの追試や新しい材料開発での高温超電導の研究の進展により、ミューラーとベドノルツは、1987年のノーベル物理学賞を受賞した。

 一方、趙忠賢らは1989年に、中国の科学技術分野最高賞であった国家自然科学賞一等賞に輝いた。受賞理由は、「液体窒素温度領域における酸化物超電導体の発見」であった。 

鉄系超電導材料でも成果

 趙忠賢は、1991年に中国科学院の院士に当選すると共に、物理研究所の超電導研究グループの主任として、引き続き超電導研究に没頭した。

 2008年に、世界の超電導研究に新しい知見がもたらされた。

 日本の細野秀雄・東京工業大学教授による、鉄系超電導材料の発見である。それまでの常識では、鉄のような磁石となる性質を持つ金属は、超電導体にはならないとされてきた。細野教授は、半導体メモリにも磁気メモリにもなれる新しい半導体の作製を目指して開発を進め、新しい物質であるLaFeAsO1-xFxという超電導物質を発見した。

 細野教授らの研究成果を聞いた趙忠賢ら物理研究所のグループは、自らも鉄系超電導材料の研究を行い、構成元素の一部を置き換えることにより転移温度で世界記録を塗り替えた。趙忠賢らは、2013年に再び国家自然科学賞一等賞に輝いた。受賞理由は、「40K以上の鉄系高温超電導体の発見及びいくつかの基本物性研究」であった。

 さらに、趙忠賢は2016年、前年にノーベル生理学・医学賞を受賞した屠呦呦と共に、国家の最高栄誉である「国家最高科学技術賞」を受賞している。

国家最高科学技術賞を受賞する屠呦呦
国家最高科学技術賞を受賞する趙忠賢(右)と屠呦呦(左)
百度HPより引用

数々の賞を受賞するが、一研究者を貫く

 一般に、中国の優れた業績を挙げた著名な研究者は、その後比較的若くして、研究所の所長や大学の学長などに就任する例が多い。
 しかし趙忠賢の場合、ケンブリッジ大学から帰国した後、一貫して物理研究所の研究員として活動し、数々の業績を挙げて国家的な賞を受賞してきたが、所長や学長といった職には就いていない。
 また、既にかなりの年齢となっているにもかかわらず、超電導研究への情熱は全く衰えていない。その意味で、趙忠賢は生涯研究者という道を貫いている。

 趙忠賢は2023年8月に、香港の財団によって設立された未来科学大賞物質科学賞を、中国科学技術大学の陳仙輝教授と共に受賞している。
 未来科学大賞は、功成り名を遂げた研究者というよりは新進気鋭の科学者を中心に授与されるものであり、趙忠賢のように、国家最高峰の賞をいくつも受賞している人が選ばれるのは大変珍しく、これも彼が生涯現役を貫く科学者である証と考えられる。

参考資料

・中国科学院物理研究所HP https://www.iop.cas.cn/2016kxjsj/
・材料牛HP 国家最高科技奖得主赵忠贤学术生涯(一)
 http://www.cailiaoniu.com/79984.html
・未来科学大賞HP 2023 物质科学奖 获奖人 http://www.futureprize.org/cn/laureates/detail/70.html