文革の開始

 1965年11月、後に四人組の一人と呼ばれる姚文元(ようぶんげん)は、上海の日刊紙「文匯報(ぶんわいほう)」に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した論文を発表した。姚文元の意図は、『海瑞罷官』の作者呉晗(ごがん)の上司である北京市長の彭真を失脚に追い込むことであり、毛沢東の意を受けたものであった。
 この論文が文化大革命の序幕であり、1966年には毛沢東の指示によって中央文化革命小組が設置され、北京の青少年によって革命に賛同する組織である紅衛兵が結成された。文革派は、劉少奇や鄧小平らをブルジョワ的反動主義者で「実権派」であるとし、彼らを失脚させた。

 文化大革命の時代は科学技術にとって暗黒時代であり、知識人に対して批判の矛先が向けられ、反革命派とされた知識人の迫害が相次いだ。大学や研究所も例外ではなく、多くの大学や研究所の幹部が取り調べを受け、つるし上げにあった。反動的とされた人々は、不法に監禁されたり、残酷な拷問を受けたり、自己批判を強要された。

 大学では統一入学試験である高考が停止となり、新規学生が入学して来なくなった。また、中国科学院などの研究所でも、新規の職員の採用ができなかった。

 文化大革命の初期段階で武力を伴った激しい権力闘争が発生し、多くの大学や研究室で教室・研究室などの建物の破壊が繰り返され、正常な教育・研究活動が維持できなくなった。

破壊活動の沈静化

 1966年の末頃から、革命派内で武力を伴った激しい権力闘争が本格化し、秩序維持の目的から介入した人民解放軍の影響力が増大し、林彪が急速に台頭した。文革に伴う国内の疲弊は経済活動の停滞を伴ってピークに達し、騒乱はしだいに沈静化して行った。

 秩序維持を目的とする人民解放軍の介入以降、破壊活動は収まっていったが、今度は思想闘争や思想改造の名目で、学生を含む若者や研究者が下放(上山下郷運動)され、通常の研究開発業務ができなくなり、科学技術関係の組織の改編が繰り返された。この結果として研究開発の現場や教育の現場は混乱し、研究開発、高等教育などの分野に大きなブランクをもたらした。

 この様な混乱のなかでも、人民解放軍が主体となって進めていた両弾一星政策は、革命派の干渉を受けながらも周恩来首相らの庇護を受けて着実に進められた。文革前の1964年に成功した原爆実験に続き、1967年には初の水爆実験を、1970年に初の人工衛星東方紅1号の打ち上げに成功、1971年には初のICBMである東風5号の発射に成功し両弾一星政策は完成した。

林彪クーデターの失敗と周恩来らの復権

 その後、林彪らの動きを警戒した毛沢東は林彪らを「極右」であると批判し、これを機に林彪と息子の林立果が中心となって毛沢東暗殺を企てるが失敗した。1971年9月、軍用機でソ連への逃亡中にモンゴル上空で墜落し、林彪を含む搭乗者が全員死亡した。

 林彪の死後、周恩来首相の実権が大きくなり、周恩来は西側諸国との外交関係の協調を模索した。1971年には、台湾の中国国民党政府が保有していた国際連合における「中国の代表権」が、中華人民共和国に移った。翌1972年には、ニクソン米国大統領が訪中し、また同年日本の田中角栄首相も中国を訪問し、日中国交正常化が実現した。1973年には実務派の鄧小平が復活し、下放されていた知識人の多くが都市に戻ってきた。

 1973年に復活した鄧小平は、人民解放軍や科学技術・教育などの整理に着手し、文化大革命の混乱を是正しようとした。その一環として鄧小平は、1975年に胡耀邦らを中国科学院に送り込み、同院への指導を強化した。胡耀邦は、科学者らと意見交換をしつつ、「科学技術工作についての諸問題」を中国共産党中央に提出した。しかし、この文書による改革は四人組を中心とした文革派の抵抗により、文革が終了するまでは実現しなかった。

文革の収束

 林彪クーデターや日米との国交正常化後も文革は継続され、周恩来らと四人組の間で激しい権力闘争が行われた。
 1976年1月には周恩来が死去し、同年4月に第一次天安門事件が発生し、鄧小平が再び失脚した。
 同年9月に毛沢東が死去し、新しく首相となった華国鋒は、葉剣英、李先念等の後押しを受け、同年10月に四人組を逮捕した。中国共産党は、四人組粉砕をもって文革は勝利のうちに終結したと宣言した。

科学技術の特徴~破壊と混乱

 文革時代には、物理的な破壊や迫害もさることながら、知的活動自体が悪であり知識人は排除すべき対象とされた。知識人として、学校の教師など身近な存在から大学の教授や国の研究機関の幹部研究員まで、幅広い層が批判の対象となった。また、大学の共通試験である高考が廃止されたことも大きな影響をもたらした。このことは大学だけではなく国の研究機関などにおいても新規の採用を困難にしていった。

 ただ、周恩来首相らの庇護により両弾一星を中心とした軍事技術開発は影響が少なく、核兵器の開発やミサイル・人工衛星の開発は比較的順調に進んだ。しかし、文革が進むに従いこれらの軍事技術開発にも文革の魔の手が及び、やはり停滞していった。

 林彪クーデターが失敗した後、鄧小平が副首相として復権し、科学技術や教育の立て直しを進めようとしたが、文革の主流派であった四人組との対立から、本格的な文革からの回復は四人組の逮捕と鄧小平の再復活まで進まなかった。

 科学技術と教育の活動は、この十年間ほとんどストップしていたと考えてよい。文革が終了して40年以上が経過しているが、いまだに大学や政府研究機関などに文革の負の財産が残っていることを念頭に置く必要がある。

科学技術の成果

 暗黒の文革時代ではあったが、科学技術の成果はそれなりに達成されている。

 まず前の時代からのプロジェクトである両弾一星であるが、文革前の1964年の原爆実験成功に続き、1967年6月には新疆ウイグル自治区のロプノールで初の水爆実験に成功した。そして1970年4月、中国初の人工衛星「東方紅一号」が打ち上げられた。これにより、原水爆とミサイルの両弾、人工衛星の一星が達成された。以降、この成果を活かして原子力発電や宇宙開発などの民生用のプロジェクトが進められていった。

 学術面でも成果が挙げられた。1971年に中医研究院女性研究者の屠呦呦(とようよう)は、ヨモギの一種「黄花蒿」からマラリアの特効薬となる「アルテミシニン」を抽出し、この発見が後にノーベル賞の受賞につながった。
 農学者袁隆平は、1964年にハイブリッド米の研究に着手し、1973年に優良品種「南優2号」を開発した。
 同じ1973年に数学者陳景潤は、ゴールドバッハ予想の一つである「十分大きな全ての偶数は、素数と高々二つの素数の積であるような数との和で表される」ことを、世界で初めて証明した。