はじめに

 湯爾和(汤尔和、Tang Erho)は、清朝末期から中華民国の時代に活躍した医学教育者・政治家で、北京大学医学部の前身である北京医学専門学校の初代校長を務めた。

湯爾和の写真
湯爾和 百度HPより引用

生い立ちと教育

 湯爾和(汤尔和、Tang Erho)は、1878年に現在の浙江省杭州市に生まれた。彼の祖父が役人を務めていた名門であったが、実直で清廉な人物で財産をほとんど残さなかったため、生家はそれほど裕福ではなかった。
 湯爾和が3歳のとき、父と母が相次いで病死してしまい、祖母によって育てられた。しかし、彼が11歳の時にその祖母もなくなり、江蘇省に住んでいた叔母に育てられた。この叔母が教育熱心であり、家庭教師を雇って湯爾和に儒教の古典を学ばせた。19歳になると、逆にそれまでの勉学の成果を元に家庭教師として働いた。

日本への留学(一度目)

 1903年、湯爾和は公費による留学生として日本に赴き、東京の成城高校に入学した。成城学校は陸軍士官学校への進学を目指す清朝からのエリート留学生を多く受け入れ、血気盛んな若者の梁山泊となっていた。当時、ロシアが満洲(中国東北部)占領する事件が起きたことから、湯爾和ら成城学校の留学生たちは、ロシアに抗議して前線で戦うための義勇隊を結成した。このような動きを警戒した清朝と日本政府により、この組織が解散させられたため、湯爾和は翌1904年に成城高校を中退し中国へ帰国した。

日本への留学(二度目) 

 帰国して、故郷の浙江省に戻って教職に就いた。ここで若者たちの教育にあたるうちに、「まずは国民の知識と身体を近代化させなければ、国は変わらない」という教育重視の思想へと傾倒していった。

 湯爾和は再び公費による留学生となり、1907年に金沢医学専門学校(現在の金沢大学医学部)に入学し、ここで本格的に近代西洋医学の基礎を学んだ。金沢医学専門学校には、当時やはり中国からの留学生・韓清泉がいた。
 湯爾和は、その後ドイツのベルリン大学を訪問の後、1910年に中国に帰国した。

辛亥革命に参加

 1911年に辛亥革命のきっかけとなる武昌蜂起の後、湯爾和は浙江省代表として江蘇省南京で開催された代表会議に出席し、全体会議の議長を務めた。同年末、湯爾和は海外から帰国した孫文を南京に迎え、臨時大統領就任式に同席した。このことにより、「医師である議長(=湯爾和)が医師である総統(孫文)を生み出した(医生议长,产生医生总统)」という逸話が残ることになった。

北京医学専門学校の設立に参画し、初代校長となる

 中華民国が成立すると、新政府の教育部は1912年9月に湯爾和を北京に招請して、「西洋医学」による医師育成のための教育機関の設立を依頼した。浙江省から北京に赴いた湯爾和は直ちに設立準備を進め、約1か月後の同年10月に、清朝末期の戊戌の変法の遺産である京師大学堂の北京大学への改編の一環として医学部を独立させ、「北京医学専門学校(北京医学专门学校)」を設置し、自らは初代の校長となった。

 同専門学校の最初の学生は、北京と上海から来た若者72名であった。湯爾和校長は、1913年初頭に行われた開校式において「この学校の目的は、単に君たちの生計を立てるための技能を提供するだけでなく、学問を通して文明を振興し、西欧列強と競い合う責任を担う人材を育てることである」と檄を飛ばしている。

 湯爾和校長の同専門学校で大きな功績の一つに、西洋医学的な遺体解剖の確立がある。中国では人々は長らく封建的な倫理観に縛られ、遺体を解剖することへの抵抗が大きかった。湯爾和校長は、単なる理論ではなく実際に解剖することの重要性から自ら解剖規則案を起草し、新政府に説明した。新政府の抵抗は頑強であったが、湯爾和校長が諦めずに何度も嘆願を続け、1913年11月、「解剖規則」が政府令として公布された。

 1912年10月に北京医学専門学校の校長となった湯爾和は、袁世凱が皇帝即位への動きを見せたことに対する抗議辞任による9か月間の中断をはさんで、1922年4月まで校長の任にあった。

 なお、北京医学専門学校は、その後校名を変更しつつ存続し、現在は北京大学医学部となっている。

北京大学医学部の写真
北京大学医学部  同校HPより引用(撮影者:邱志維)

政治家として政府の高官に

 北京医学専門学校の校長を辞任した湯爾和は、中国政府の高官として活躍する。

 1922年7月には教育部次長に、さらに同年9月には教育部総長(教育大臣)に就任している。また、1926年には、内務総長(内務大臣)、1927年には財政総長(財務大臣)に就任している。
 しかし、軍閥が跋扈していた当時の中国の政治状況から、これらはそれほど長続きしなかった。

 1929年に再度日本に留学し、それまでの研究成果を基に論文を提出し、東京帝国大学から医学博士の学位を得ている。

日本の傀儡政権に協力し、後に漢奸と呼ばれる

 1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発すると、湯爾和の運命は大きく変化することとなった。

 日本軍が短期間の後に北京を占領し、同年12月に日本軍の後押しで「中華民国臨時政府(華北臨時政府)」が成立すると、湯爾和は同政府の議会議長や教育総長などの要職に就いた。

 さらに、江蘇省南京に成立した「汪兆銘政権」に華北臨時政府が1940年3月に統合されると、湯爾和は同政権にも参加した。しかし、湯爾和は病を得、1940年11月に北京(当時は北平)で亡くなった。62歳であった。

 この華北臨時政府や汪兆銘政権に参加したことにより、現在の中国で湯爾和が、「漢奸(国の裏切り者)」として厳しい評価を受けることになった。

参考資料

・北京大学医学部HP 学校创始人——汤尔和
https://archives.bjmu.edu.cn/byjy/bylzp/80c60be4784d44c7b71a9a56f5a1e054.htm