はじめに
陳嘉庚(Tan Kah Kee、1874年~1961年)は、シンガポールでゴム農園やゴム製品の生産でビジネスに成功し、故郷の厦門市に厦門大学や集美学村などを設立して、教育などに貢献した。

生い立ち
陳嘉庚(陈嘉庚、Tan Kah Kee)は、1874年に現在の福建省厦門市集美区に生まれた。父・陳祈拝は、1880年代初頭に当時英国の植民地であったシンガポールに単身で渡り、米穀商となって成功を収めた。
陳嘉庚は、父の仕送りで8歳から地元の私塾に通い、四書五経などの中国古典を学び、儒教的な倫理観を叩き込まれた。
シンガポールにわたって、ビジネスで成功
陳嘉庚は、16歳となった1890年にシンガポールに渡り、父の米穀商の仕事を手伝った。
1903年に父の経営していた米穀商のビジネスが破綻し、巨額の負債(現在の価値で約数十億円)が残ってしまった。シンガポールに適用されていた英国法では、父の借金を息子である陳嘉庚が返済する義務はなかったが、陳嘉庚は「父の作った負債を返さないのは華僑の恥であり、家族の信用を失墜させる」と考え、限られた自己資金を元にパイナップル缶詰工場を立ち上げ、数年かけて元本だけでなく利息まで上乗せして全額を返済した。
パイナップル缶詰工場で成功した陳嘉庚は、1906年にゴム栽培の事業に乗り出した。当時米国では、ヘンリー・フォードらによる自動車の大量生産が始まっていて、陳嘉庚はタイヤの材料となるゴムが大量に必要となると予見したのである。これが見事に当たり、ゴム園の作付面積も増大した。
さらに1914に開始された第一次世界大戦でゴムが軍需物資となると、価格が高騰した。そして、戦時下の船舶不足を目にした陳嘉庚は、海運業にも乗り出して自らのビジネスをさらに拡大した。1920年代に、陳嘉庚公司は当時の中華圏でトップクラスの資産を有し、従業員は3万人に達した。
集美学村整備と厦門大学設立
陳嘉庚がビジネスで絶頂期にある時期に行ったのが、集美学村の整備と厦門大学の設立である。
陳嘉庚は、「国家の強弱は国民の知る力に比例し、国民の知力は教育によってのみ高められる。中国が外国の列強に対抗し、貧困から脱却するには教育の普及しかない」という確固たる信念(教育国策論)を持っていた。
陳嘉庚は1913年から、故郷の厦門市で小学校、中学校、師範学校、水産航海学校などを次々と設立していった。これが現在に残る集美学村で、厦門市集美半島の集美村に位置している。学村の総建築面積は3,000エーカーを超え、教師と生徒は10万人を超え、就学前教育、小学校、中学校、高校、大学の学部・大学院が設置されている。
現在、集美学村は観光スポットになっていて、村内の建物は福建省南部の華僑の故郷の建築スタイルと西洋のスタイルを融合させたものである。また休日には、学村内にある池を用いてドラゴンボートレースが開催される。
さらに陳嘉庚は、国を支える指導者や高度な専門家を育成する大学が福建省に存在しないという現実に直面し、自ら大学を創ることを決意した。1919年に厦門市で教育集会を開き、自らの全私財を投入して大学設立のための資金とその後25年間にわたる運営費を拠出すると宣言した。厦門市もこの陳嘉庚の熱い想いに応え、公有地の無償払い下げを実施して、大学設立に協力した。1921年に校舎が完成し、教育学部と商学部、学生数98名で、厦門大学が正式に開校した。
世界恐慌によるビジネスの破綻
1929年の世界恐慌によりゴム価格が暴落し、自動車産業の減産でタイヤの原料である生ゴムの需要が激減した。「陳嘉庚公司」の収益は、大幅な赤字へ転落した。それでも陳嘉庚は厦門大学運営費の送金を止めなかったため、会社のキャッシュフロー(現金流動性)が限界を迎えた。融資を行っていた銀行が経営権を掌握することになり、陳嘉庚に厦門大学への送金を停止するように要請した。しかし陳嘉庚はこれに同意せず、結果として1934年に、陳嘉庚公司は解散した。
陳嘉庚は無一文となったが、何とか知人や関係者の協力で、生きながらえることが出来た。また、陳嘉庚がその創立と運営に心血を注いだ厦門大学は、陳嘉庚から政府に移管され、国立大学として継続することとなった。
抗日運動を指導
1937年7月に日中戦争が開始されると、東南アジア全域の華僑を団結させ、祖国を救うための団体をシンガポールで立ち上げ、その主席となった。陳嘉庚の誠実さに対する華僑社会の信用は絶大で、彼が呼びかけたことにより東南アジアの華僑から巨額の義援金を集め、中国本土へ送金して対日抗戦を支えた。
1941年に太平洋戦争が勃発し、日本軍がマレー半島を南下しシンガポールに迫った。1942年2月、陳嘉庚はシンガポール陥落の数日前に船で脱出し、インドネシアのジャワ島へと逃れた。この時期に陳嘉庚は、自らの回顧録『南僑回憶録』を執筆している。
1945年8月に日本が敗戦を迎えると、陳嘉庚は潜伏生活を終えて姿を現し、華僑社会から熱烈な歓迎を受けた。
中華人民共和国建国後
国共内戦の後、1949年に中華人民共和国が建国されると、陳嘉庚は北京に赴き、中央人民政府委員、全国人民代表大会(全人代)常務委員会委員、中国人民政治協商会議(全国政協)副主席、中華全国帰国華僑連合会(全中僑聯)主席などの要職を歴任した。
陳嘉庚は、海外にいる何千万もの華僑の権利を守るための政策を提言し、新中国と東南アジア諸国との外交の架け橋となった。陳嘉庚は、故郷厦門に暮らし、高齢の身でありながら毎日ヘルメットをかぶり、日中戦争と国共内戦によって破壊された廈門大学や集美学村の校舎再建の陣頭指揮を執った。また国から支給される給与や手当てのほとんどを学校の再建費用に回し、自身は破れた靴下を履き、1個の卵を2日に分けて食べるような生活を続けたという。
陳嘉庚は、1958年頃からがんに侵され、北京の病院で療養を続けたが、1961年8月に息を引き取った。北京では政府による国葬を執り行われ、シンガポールでは合同追悼大会が開かれ、多くの市民がその死を悼んだ。享年86歳であった。
陳嘉庚科学賞
陳嘉庚が亡くなって27年後の1988年に、陳嘉庚の遺族と中国科学院が陳嘉庚基金会を設置し、陳嘉庚の功績を称え中国の優れた科学者を助成する目的で、陳嘉庚賞の授与を開始した。しかし、1998年に発生したアジア通貨危機の影響により同基金会が経営難に陥り、1999年で同賞の授与が中断された。
その後、陳嘉庚賞の授与を再開する動きが出て、中国政府の了承のもと中国科学院と中国銀行が共同で3,000万元を出資して、2003年に陳嘉庚科学賞基金会が設置された。そして、新たな名称となった陳嘉庚科学賞の授賞が開始されたのは2006年からである。2008年には中国銀行が基金会に対して、1,000万元を追加出資している。
陳嘉庚科学賞は、中国国内の優れた科学者を顕彰する科学賞として、数理科学(数学、物理学、力学、天文学を含む)、化学、生命科学(生物学、医学、農学を含む)、地球科学、情報技術科学、技術科学の6部門がある。西暦の偶数年に授与され、受賞者には、賞金100万元とメダルが授与される。

この陳嘉庚科学賞を受賞した人には高いレベルにある科学者が多く、2026年現在で、当HPで取り上げた同賞受賞科学者は次のとおりである。青の科学者名をクリックすると、当該の記事が開く。
王小雲(2006年、情報技術科学賞)、侯建国(2008年、化学賞)、楊学明(2010年、化学賞)、薛其坤 (2012年、数理科学賞)、王恩哥(2014年、数理科学賞)、包信和(2018年、化学賞)、李家洋(2018年、生命科学賞)、馮小明(2020年、化学賞)、施一公(2020年、生命科学賞)、莫毅明(2022年、数理科学賞)、江雷(2022年、化学)、邵峰(2022年、生命科学賞)、方忠(2024年、数理科学賞)、戴希(2024年、数理科学賞)、趙東元 (2024年、化学賞)、張涛(2026年、化学)。
2012年には、40歳未満の若手研究者を対象とした陳嘉庚青年科学賞の授与も開始されている。同賞は上記陳嘉庚科学賞と同様に、数理科学(数学、物理学、力学、天文学を含む)、化学、生命科学(生物学、医学、農学を含む)、地球科学、情報技術科学、技術科学の6部門があり、西暦の偶数年に授与される。受賞者には、賞金20万元が授与される。
参考資料
・厦門大学HP https://www.xmu.edu.cn/
・陳嘉庚科学賞基金会 https://tsaf.cas.cn/
・百度HP 厦门市
・百度HP 陈嘉庚
・百度HP 陈嘉庚科学奖


