はじめに
謝希徳(谢希德)は、固体物理学や半導体科学を専門とした女性科学者であり、1983年には女性として中国史上で初めて、主要大学の一つである復旦大学学長を務めた。

父・謝玉銘は著名な物理学者
謝希徳の父は、著名な物理学者である謝玉銘(谢玉铭)である。謝玉銘は、1893年に福建省に生まれ、燕京大学の前身の一つである北通州協和大学を卒業して米国に留学した。米国では物理学を専攻し、コロンビア大学で修士を、シカゴ大学で博士を取得した。その後、北京の燕京大学、米国のカリフォルニア大学、厦門大学などで教鞭をとり、第二次大戦後はフィリピンや台湾でも教え、1986年93歳で台北で亡くなっている。

生い立ちと教育
謝希徳は、1921年に福建省泉州市に生まれた。父・謝玉銘が泉州市の中学校で数学、物理などを教えていた時期であり、謝希徳の出生後に単身で北京に出て、燕京大学の助教となった。さらに謝希徳が2歳となった1923年に、父・謝玉銘は家族を残して米国に留学した。謝希徳の実母・郭瑜謹は、夫の留学中の1925年に腸チフスで亡くなり、謝希徳は祖母に育てられた。
父が米国での留学を終え、1926年に帰国して北京にあった燕京大学に勤めたため、謝希徳も北京に出て、北京で基礎教育を受けている。彼女の小さい頃の楽しみは、父の書斎で父の蔵書を読むことであった。
1937年の盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発して北京が日本軍に占領されたため、父・謝玉銘は一家とともに北京から脱出して大陸南部に移った。
この時期に謝希徳は大きな不幸に見舞われた。当時高校生であった謝希徳は、股関節結核にかかり、高校を中退して寝たきりの生活が4年間続いた。
後遺症が残ったものの、幸い日常生活に復帰できた謝希徳は、1942年に戦火を避けて貴州省に疎開していた浙江大学に合格した。しかし、その当時厦門大学の教授であった父は、彼女も家族と一緒にいることを強く望み、結果として厦門大学に入学することとなった。
謝希徳は、1946年に厦門大学の数理科を卒業し、翌1947年に奨学金を得て米国に赴き、マサチューセッツ州ノーザンプトンにあるスミス大学(Smith College)に入学した。同大学で修士学位を取得し、同じマサチューセッツ州ボストンにあるMITに移って理論物理学を専攻して、1951年に博士学位を取得した。
曹天欽との結婚
謝希徳は1952年に、北京の中学時代に知り合った曹天欽と英国で結婚した。同年、謝希徳と曹天欽の夫妻は、香港を経由して上海に帰国した。

曹天欽(曹天钦、Tianqin Cao)は、1920年北京生まれで謝希徳の1歳年上であった。燕京大学化学科を卒業の後、英国の化学者で中国科学史の研究者としても有名なジョゼフ・ニーダム(Joseph Needham、李約瑟、1900年~1995年)の紹介を得て、1946年にケンブリッジ大学化学科に留学した。1951年に同大学から博士学位を取得していた。
曹天欽は帰国後、上海の中国科学院生理生化研究所に勤務した。その後中国科学院生物化学研究所副所長となった曹天欽は、1964年に開始されたウシ・インスリンの合成プロジェクトを全面的にバックアップし、成果の公表に関与している。
半導体研究者養成プログラム
謝希徳は帰国後、上海にある復旦大学物理学科の教授となった。
1954年に、中国の科学・教育界で大きなプロジェクトが立ち上がった。半導体研究者の養成プログラムである。第二次世界大戦の戦中から戦後にかけて、ショックレーやバーディーンなどによりトランジスタや集積回路の開発が進み、半導体は次世代を担う技術と目されるようになっていた。そこで中国政府は、米国で理論物理学を研究した謝希徳と英国で固体物理学を研究した黄昆に依頼して、北京で半導体研究者養成プログラムを立ち上げることにした。
養成プログラムは、「五校連合半導体専門プログラム(五校联合半导体专门化)」と名付けられ、黄昆が教授であった北京大学に設置された。五校とは、北京大学、復旦大学、南京大学、厦門大学、北京人民大学であり、これら中国のトップクラスの大学から全体で30名を超える教師が招聘され、学生の教育に当たった。
謝希徳は当時出産した直後であり、長男はまだ5か月と乳飲み子であったが、夫と長男を上海に残して北京に赴き、同プログラムの副主任として、主任となった黄昆を支えた。
このプログラムは、その後2年間で約300名の学生を教育し、これらの学生がその後の中国半導体研究をけん引していくこととなる。また黄昆と謝希徳は、半導体教育の教材作りで協力し、1958年に「半導体物理学」と「半導体理論」を科学出版社から出版している。
上海に戻る
謝希徳は、1958年に上海の復旦大学に戻り、中国科学院と復旦大学が協力した上海技術物理研究所の立ち上げに尽力し、設置後は同研究所の副所長に就任した。
1966年に文化大革命が開始されると、謝希徳は知識分子として非難糾弾の対象となり強制労働を課され、さらに同年8月には乳腺ガンが見つかったため、十分な研究教育活動ができなくなった。
復旦大学学長に就任
1976年末に、四人組の逮捕によって文革が終了し、病も癒えた謝希徳が情熱を注いだのは、表面物理学の研究である。復旦大学と中国科学院に、自らも参加する表面物理学を研究する組織を設置した。
1980年には、中国科学院の院士(当時は学部委員)に当選した。
謝希徳は1983年に、復旦大学の学長に就任した。復旦大学のような中国の主要大学で、女性の学長が就任したのは歴史的に初めてのことであった。なお、前任は日本の東北帝国大学に学び、日本人女性と結婚した数学者蘇歩青である。

1988年までの5年間に、謝希徳は学長としていくつかの大きな成果を挙げていく。
まず取り組んだのは、新中国建国直後の院系調整により歪になっていた復旦大学の学部の強化・再編成である。復旦大学は、理学部は他大学などの学科を吸収し強化された一方、法、商、農の3学部は切り離され他の大学に移管されて、文理のリベラルアーツ中心の大学となっていた。謝希徳はこれを改める努力を開始し、技術科学、生命科学、管理科学など5つの学部(中国語では学院)を新たに設置して、総合大学化を進めた。
謝希徳がもう一つ進めたのは、復旦大学の国際化である。謝希徳が学長に就任してからは、多くの著名な外国人を招聘し、国際交流に努めた。中国系初のノーベル賞学者である楊振寧や、レーガン米国大統領(当時)、茅誠司元東京大学総長などが復旦大学を訪れている。また、1985年に復旦大学内に米国研究センターを設置し、自らがセンター長を兼務した。

晩年
謝希徳がまだ復旦大学の学長であった1987年に、夫・曹天欽は出張先のイスラエルで倒れ、帰国を余儀なくされた。その後曹天欽は、麻痺と記憶障害の後遺症に悩まされることになった。謝希徳は看病を続けたが、1995年に曹天欽は亡くなった。
謝希徳は、その後も上海交通大学、北京大学、清華大学により設立された上海杉达学院の院長を務めるなど公務に就いたが、1998年に再び進行性乳がんの宣告を受けて治療に専念するも、2000年に亡くなった。享年79歳であった。
謝希徳夫妻の旧居
かつて筆者は、上海にある中国科学院傘下の研究所の実情を把握するため、上海を何度か訪れたことがあった。その際、利用していたホテルと科学院の研究所の間に、謝希徳夫妻が1952年から1986年まで30年以上にわたって住んだ家があり、下記のようなプレートを見つけた。この家にいた時代は、二人が米国から帰国した直後から、復旦大学の学長に就任後までの時期である。

参考資料
・泉州文化产业网HP 【“泉”因有你】谢希德:新中国第一位女大学校长
http://www.qzwhcy.com/html/news/202309/15/32254.shtml
・厦門大学HP 科学救国,德育天下——纪念谢希德先生诞辰103周年
https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzIyNzc5MzM0OA==&mid=2247498122&idx=1&sn=c53a935c06afc2b31209828d66d364a0&chksm=e8597921df2ef037f47d2535ba4cae31eda4734775f7a62eb969e0c5a9007b8b6f772d197c04&scene=27