はじめに

  ウシ・インスリン合成プロジェクトは、中国の集団での研究開発成果として有名である。ここでは、プロジェクトの概要を述べると共に、プロジェクトに係わった代表的な研究者としてちゅうけい(1920年~1995年)と鄒承魯すうしょうろ(1923年~2002年)を取り上げる。

ウシ・インスリン合成プロジェクト

 血糖調整に重要な働きをするインスリンは、動物の膵臓から分泌されるタンパク質の一種である。1921年、カナダ・トロント大学のフレデリック・バンティングらはインスリンを発見し、1923年にノーベル化学賞を受賞した。1951年には、英国・ケンブリッジ大学のフレデリック・サンガーがウシ・インスリンのアミノ酸構造を解明し、1958年にノーベル化学賞を受賞した。

 サンガーにより構造が解明されたウシ・インスリンの機能は、ヒト・インスリンと極めて近く、ウシ・インスリンを合成することができれば糖尿病患者への特効薬として多くの生命を救うことができると期待され、世界の多くの科学者がウシ・インスリンの人工合成を目指した。

合成プロジェクトの開始

 中国でも、サンガーのノーベル賞受賞年である1958年に、中国科学院上海生物化学研究所がウシ・インスリン人工合成計画を策定し、政府に提案した。政府はこの提案を受け入れ1959年に国家の研究プロジェクトとした。研究の実施は、中国科学院上海生物化学研究所に加え、中国科学院上海有機化学研究所と北京大学生物学部も分担した。

 1964年、上海生物化学研究所のちゅうけいらがポリペプチドを使ってウシ・インスリンのB鎖を人工合成し、合成したB鎖を上海生物化学研究所の鄒承魯すうしょうろらが天然のA鎖と再編することにより、インシュリンを作り上げることに成功した。続いて1965年、上海有機化学研究所汪猷おうゆうと北京大学化学部の季愛雪らがインシュリンA鎖の人工合成を完成させ、これと先に上海生物化学研究所で人工合成に成功していたB鎖を再編することにより、ウシ・インスリンの完全な人工合成に成功した。人工合成したインスリンを純化して測定したところ、天然のインスリンと全く同様の活性と抗原性を有し、しかもその結晶の形が天然と同一であった。
 これらの成果を鈕経義ら20名連名で、1965年11月に「中国の科学」誌に短信を、1966年4月に全文を発表した。

ウシ・インスリン合成
ウシインスリン合成の成功 百度HPより引用

 1966年の発表直後に、鄒承魯らはワルシャワで開催された欧州生物化学学会で発表したところ、大変な驚きと賞賛を持って迎えられた。また同年の7月に、サイエンス誌が「赤い中国の完全なインスリン合成(Total Synthesis of Insulin in Red China)」という記事を掲載し、この業績を称えている。

 このプロジェクトの成果は、中国のポリペプチド・蛋白質合成分野における研究レベルが、世界の先端に達したことを示すものであり、これによってインスリンに関するホルモンの研究や応用も加速し、インスリンの作用原理やインスリン結晶構造の研究も促され、生化学試験や生化学薬物の発展にもつながった。

ノーベル賞への推薦

 プロジェクトの達成直後に文化大革命が始まり、科学研究の国際交流は遮断され、プロジェクトに参加していた多くの科学者も紅衛兵や四人組の批判の対象となってしまい、国際的な研究舞台から遠ざかってしまった。

 転機が訪れたのは、1972年にニクソン米国大統領が訪中し、科学技術を含めた米中の交流が再開されてからである。同年夏には、ノーベル賞受賞者で米国にいた楊振寧が中国科学院上海生物化学研究所を訪問し、ウシ・インスリン合成プロジェクトの成果を高く評価した上で、ノーベル賞に推薦すべきであると述べた。ただ当時は文革の最中であっため、楊振寧の話を聞いた周恩来はこれをやんわりと否定した。楊振寧はその後もノーベル賞推薦にこだわったが、文革中は全く実らなかった。

 文革終了後、ノーベル賞推薦が改めて取り上げられ、1978年12月に北京友誼賓館で、中国科学院の銭三強副院長が主催するウシ・インスリン合成プロジェクトの成果確認のための会合が10日間にわたって開催され、関係者60名が参加した。プロジェクトに関係した多くの研究者の中で、誰がより多く貢献したのかが同会合の中心的な議題であり、審議の結果、次の4つの分野で8名がまず選抜された。
 〇生化学による分解と合成(中国科学院生上海物化学研究所):鄒承魯、杜雨蒼
 〇B鎖合成(中国科学院上海生物化学研究所):鈕経義、龚岳亭
 〇A鎖合成(中国科学院上海有機化学研究所):汪猷、徐傑誠
 〇A鎖合成(北京大学):季愛雪、邢其毅

 しかし、ノーベル賞の受賞者は一年で各分野最大3名であることから、8名をもう少し絞ることとし、4つの分野の代表者として、上海生物化学研究所・鄒承魯、上海生物化学研究所・鈕経義、上海有機化学研究所・汪猷、北京大学・季愛雪を選んだ。その上で、最終的に上海生物化学研究所・鈕経義をノーベル賞ノミネートの候補とした。
 その後中国科学院は、楊振寧ら中国系の著名研究者に鈕経義の推薦を依頼し、期待を持って翌1979年のノーベル賞受賞の知らせを待ったが、残念ながら吉報は来ず、受賞できなかった。

 なぜ受賞できなかったについて、当時中国ではプロジェクトの成功から時間がそれほど経っていないことや、ノーベル賞選考委員会に中国人差別があるなどの理由が取り沙汰された。しかし現在では、このプロジェクトは数十名が参加して「力仕事」的に実施されたものであり、ノーベル賞の受賞理由とされる科学の原理やオリジナルなものではなく、受賞になじまなかったとの考えが定説となっている。
 ノーベル賞騒ぎの3年後の1982年に中国政府は、プロジェクトで功績のあった前記8名に、国家自然科学一等賞を授与している。

 ここでは、プロジェクトを主導した鈕経義、鄒承魯を取り上げたい。

鈕経義(1920年~1995年)

ウシ・インスリン合成で活躍した鈕経義
鈕経義 百度HPより引用

 ちゅうけい(钮经义)は1920年に、現在の江蘇省泰州市興化に生まれ、地元で基礎教育を受けた後、日中戦争開戦後の1938年に西南連合大学の化学科に入学した。1942年に同大学を卒業し、重慶国立薬専(現在の中国薬科大学)で教職に就いた。

 第2次大戦終了後の1948年に自費で米国に渡り、テキサス大学で生物化学を専攻し、1953年に同大学より生物化学でPhDを取得した。その後、カリフォルニア大学バークレー校で、タンパク質の一次構造解析などのポスドク研究を行った。

 鈕経義は1956年に中国に帰国し、中国科学院上海生物化学研究所に入所した。1958年から1966年頃まで、鈕経義はウシ・インスリン合成プロジェクトを先導し、同プロジェクトを成功に導いた。

 1966年に文化大革命が始まると、鈕経義は反動分子として研究を続けることが出来なくなった。1972年に米国と中国の研究交流が再開し、楊振寧が中国を訪問して周恩来と面会した際、楊振寧がウシ・インスリン合成プロジェクトの成果を高く評価して、ノーベル賞に推薦したいとした。周恩来はこれを婉曲に断ったが、これを契機に鈕経義の研究活動は徐々に回復していった。

文革終了後の1980年には、中国科学院学部委員(現院士)に当選した。1995年に上海で死去している。

鄒承魯(1923年~2002年)

鄒承魯の写真
鄒承魯 百度HPより引用

 すうしょう(邹承鲁)は1923年に、山東省青島で鉄道会社の職員の家に生まれた。父の転勤先である遼寧省の瀋陽で小学校に入学したが、1931年に柳条湖事件(918事変)が起きたため、家族で武漢に移動し、そこで中等教育を受けている。しかし、1937年に日中戦争が開始され、翌1938年に武漢が日本軍の手に落ちたため、重慶に移動して学業を続けた。1941年には西南連合大学に入り、1945年に同大学化学科を卒業した。

 鄒承魯は1946年に、公費留学試験に合格して英国ケンブリッジ大学に留学した。1951年に、タンパク質分解酵素などの研究により生化学の博士号をケンブリッジ大学から取得し、帰国して中国科学院上海生物化学研究所に奉職した。

 1958年に上海生物化学研究所でウシ・インスリン合成プロジェクトが計画されると、鄒承魯は同プロジェクトに参加し、インスリンの2つの鎖の分解と合成を担当することになった。1965年に完全な人工合成に成功したが、直後に開始された文化大革命で批判の対象となった。

 文革終了後に研究活動を再開した鄒承魯は、1979年に代謝を担う重要酵素である「グリセルアルデヒド-3-リン酸デヒドロゲナーゼ」が活性部位で蛍光誘導体を形成することを発見し、ネイチャー誌に論文を投稿した。これにより中国科学院の進歩一等賞を受賞し、見事に復活した。1980年には中国科学院の学部委員(現院士)に当選している。

 鄒承魯は、その後中国における科学者研究倫理に取り組んだ。鄒承魯は、この問題に関し、「科学研究が虚偽であることは許されないが、名声と富を追いかけるために偽造する人もいる。精査せずに他人の結果を盗用することはさらに耐え難い」として、中国国内での研究倫理強化を訴えた。

 鄒承魯は2006年に、上海で亡くなった。享年83歳であった。

 鄒承魯夫人である李林も、著名な科学者である。李林は1923年生まれで、鄒承魯と同い年であった。李林の父は地質学者の李四光である。李林も、鄒承魯とほぼ同時期の1946年に得て英国バーミンガム大学に留学し、1948年に鄒承魯と結婚している。李林は、夫と同様にケンブリッジ大学よりPhDを取得した後、1951年に夫と共に帰国した。その後、両弾一星政策で核兵器開発などに従事した後、1980年に夫と同時に中国科学院の学部委員(現院士)に当選している。2002年に79歳で亡くなっている。

参考資料

・中央人民政府HP 新中國檔案:我國首次人工合成結晶牛胰島素蛋白 http://big5.www.gov.cn/gate/big5/www.gov.cn/test/2009-09/27/content_1427654.htm