はじめに

 潘承洞(Pan Chengdong、1934年~1997年)は、ゴールドバッハ予想の証明に貢献し、山東大学学長として大学改革を行った。現代中国の暗号の大家である王小雲を育成した。

潘承洞の写真
潘承洞  百度HPより引用

生い立ちと教育

 潘承洞(Pan Chengdong)は1934年に、江蘇省蘇州市の名家に生まれた。父の潘子起は実業家であり、地元の商工会の会長を務めるなど名望家であった。

 両親は「崇文、重教、修身、報国(学問を尊び、教育を重視し、行いを正し、国家に報いる)」を家訓としていた。兄弟は3人で、姉の潘承絢、潘承洞、弟の潘承彪であった。彼らは、知識の大切さと、教育の重要性を小さいときから両親に教え込まれた。3人は、いずれも北京大学を出て、数学の大学教授となっている。

後列 弟・潘承彪(左)、潘承洞(中央)、姉・潘承絢(右)
前列 母・高嘉懿(左)、父・潘子起(右) 北京大学新聞网のHPより引用

 潘承洞は少年時代から数学の才能を発揮し、高級中学(日本の高等学校)の時代には数学の教科書に誤りがあることを教師に伝え、教師が潘承洞の数学の才に大変驚いたとの逸話を残している。
 弟の潘承彪も数学の才能に恵まれていたが、兄弟の性格は全く違っていて、兄・潘承洞は外向的で行動派であり、弟は内向的であった。1950年代に蘇州市にビリヤード場が出来たとき、潘承洞はビリヤードに夢中になり、ビリヤード場の経営者と「勝ったら今度からタダで遊ばせてくれ」と賭けをして勝利している。

北京大学数学科に入学

 潘承洞が大学入学適齢期となった1952年は、中国の大学にとって激動の時期であった。
 1949年に中華人民共和国が建国され、建国期の技術者などの人材不足を解消する目的で、1952年に大学学部の大規模再編政策・院系調整が実施された。北京大学でいうと、工学部は清華大学などに移管され、逆に数学科など理学部は清華大学などから編入してきた。さらに同じ1952年に、全国の大学入試を統一化する目的で、「全国普通高等学校招生入学考試(通称は高考)」が開始された。

 潘承洞は、最初の高考を受験し、全国でも極めて優秀な成績により、北京大学数学科に入学した。当時より北京大学数学科は、優れた教授陣と圧倒的な才能に恵まれた学生の集団であったが、その中で潘承洞はチェスやトランプ(ブリッジ)に興じたり、サッカーに汗を流したりと多趣味であったが、成績は極めて優秀であった。

 潘承洞が三年生となると、弟の潘承彪がやはり北京大学数学科に入学してきた。二人は同じ学生寮に寝起きし、数学の研究に取り組んだ。小さいころと同様に、兄は動的で直感的なひらめきの天才であり、弟は静的で緻密であった。兄の潘承洞が、新しい数学のアイデアを思いつくと、すぐに寮の部屋で「おい承彪、これを計算してみてくれ」と弟に頼んでいた。

 この頃、当時の数学界の巨匠で中国科学院・数学研究所(現在の数学・システム科学研究院)所長であった華羅庚は、研究所内に「ゴールドバッハ予想討論班(哥德巴赫猜想讨论班)」を立ち上げ、全国から若手数学者を集めて研究会を開催した。この討論班に、潘承洞や陳景潤などが参加している。ゴールドバッハ予想は、200年以上解決していない難問であったが、この予想が解析数論における手法と結びついており、解析数論の最も重要な武器を身につけることができると、華羅庚は若手数学者に檄を飛ばした。

山東大学に奉職

 潘承洞は、1961年に北京大学大学院を卒業し、政府の指示に従って山東大学で教職に就いた。山東大学赴任直後は、ゴールドバッハ予想に没頭し、その一部を解決を成し遂げた。数学研究所の討論班の仲間や弟との連携が大きく貢献した。

 1966年に文化大革命が開始されると、潘承洞は文革派の批判の対象となった。幸い、肉体的・精神的な迫害はそれほどではなかったが、研究の中断を命じられて下放し、江西省の湿地帯で強制労働を課せられた。文革前半の激動期が過ぎ、1970年代に入ると潘承洞らは山東大学に復帰することが出来た。

 1973年、ゴールドバッハ討論班の仲間であった陳景潤が、ゴールドバッハ予想に関する論文を「中国科学」誌に公表した。この論文の国際的な評価は高く、英国の数学者が絶賛して、この証明を「陳の定理」と名付けた。潘承洞らは、これを大いに称賛し、自らもより簡略化した証明を考案した。

山東大学学長

 1976年に文化大革命が収束し、1979年に潘承洞は数学科の主任となった。

 潘承洞は1982年に、ゴールドバッハ予想討論班の仲間であった陳景潤及び王元とともに、国家自然科学賞一等賞を受賞した。受賞理由は「ゴールドバッハ予想の研究(哥德巴赫猜想研究)」であった。

 潘承洞は、1984年に山東大学の副学長に就任し、さらに1986年に学長に就任した。
 山東大学は元々中国の名門大学ではあったが、1952年の院系調整により文学や歴史学分野の比重が高い大学となっていた。学長に就任した潘承洞は、「文理並挙、新老共進(文系理系の同時発展、ベテランと若手の共存)」をスローガンとして、伝統の文系を重んじつつも時代の変化に合わせて大胆な理系シフトと若手抜擢を実施していった。

暗号研究の王小雲を育成

 潘承洞は、文化大革命の下放時代や混乱期、純粋数学の研究だけでなく、応用数学や統計学などにも目を向けるようになっていた。そして、数論がコンピュータ社会のセキュリティ、すなわち「暗号学」に応用されることを予想した。

 この時期に出会ったのが、現在の中国における暗号研究の第一人者となった王小雲 (王小云、Wang Xiaoyun、1966年~) 山東大学教授である。

王小雲の写真
王小雲 百度HPより引用


 王小雲は、1983年に山東大学の数学科に入学し、クラスで大変優秀な学生であった。彼女の評判を聞いて、潘承洞は王小雲に直接会って、数学の課題を書いた紙を手渡した。王小雲は翌日に、解答を記した紙を潘に提出した。潘副学長は、想像より短期間での解答に驚くとともに、その解答内容にも才能を感じ、自分が直接彼女を指導することとした。
 潘承洞が、王小雲に専攻分野として勧めたのが暗号分野である。当時世界は、情報ネットワーク時代に入りつつあり、また中国では国防上の観点からも暗号分野の研究が重要になってくる、と考え勧めたのである。王小雲はこれに応え、以降暗号分野での研究に専念していった。

学長在任のまま死去

 潘承洞は、1983年に直腸がんを発症したが、大手術や抗がん剤治療により回復し、その後1986年に山東大学学長に就任している。
 1990年代後半に、がんが再発・転移し、容態が悪化した。そして、1997年、済南市の病院で亡くなった。享年63歳であった。 

参考資料

・北京大学新聞网HP 师友相济,攀数论高峰——纪念潘承洞先生九十周年诞辰https://news.pku.edu.cn/info/7921/2796841.htm
・腾讯网HP 报告文学|潘承洞:登峰领航,精神不朽
https://news.qq.com/rain/a/20241230A02PO300