はじめに
路甬祥(Lu Yongxiang、1942年~)元中国科学院院長は、浙江大学学長を経て中国科学院の第五代院長となり「知識創新工程」を通じて同院の研究開発をイノベーションに大きく舵を切った。

生い立ちと教育
路甬祥(Lu Yongxiang)は、1942年に浙江省寧波市で生まれた。父の路念慈は、西洋医学を学んだ後、自ら病院を開設し、外科内科の医師として活躍していた。母は夫の病院で助産婦として、共に地域医療に貢献していた。
路甬祥が小学生時代の1956年、周恩来総理が中国共産党の会議で科学情勢に関して演説し、「科学は中国の国防、経済、文化の決定的な要素であるが、世界科学の急速な発展は中国をはるか後ろに置きざりにしており、今後中国は世界の先進的な科学のレベルに追い付かなければならない」として「科学に向かって邁進(向科学進軍)」というスローガンを示した。路甬祥は、この周恩来総理の演説に深く感激し、「科学の高峰へ進軍する」という人生の誓いを立てたという。
浙江大学に入学
路甬祥は、地元の高級中学(日本の高等学校)を卒業の後、1959年に浙江大学機械工程学院の水力機械専攻に入学した。

当時の浙江大学機械工程学院は5年制で、カリキュラムの中に計3回の大規模な工場実習が組み込まれていた。路甬祥はこの実習に非常に熱心に取り組み、これが彼の「実践重視」のエンジニア精神の基礎となった。
路甬祥は、1964年に浙江大学を卒業したが、誠実な人柄が評価され同大学の教員(助教)として残る(留校)こととなった。
文革中も研究を続行
1966年に文化大革命が始まって、教育や研究活動が大混乱となり、多くの知識人や研究者が激しい迫害を受けたり研究を中断させられたりした。しかし、幸運にも路甬祥は大きな政治的迫害を受けることなく、大学に留まり、一貫して流体伝動・制御工学の研究活動に没頭した。
実家が医師という知識人であるにもかかわらず迫害を免れたのは、父の路念慈が「貧しい病人からはお金を取らず、地域医療に尽くした徳のある医師」と見なされたことが理由とされる。
文化大革命終了したのち、指導者として復活した鄧小平は「国内の科学技術・教育レベルを高めるため、留学生を早急に数多く派遣すべきであり、その人数も千人・万人単位とすべき」と指示した。この鄧小平の強い指示により、米国や欧州などに留学生を派遣する政策が推進されていった。
路甬祥は、文化大革命時代にほとんど政治的な活動に関与せず研究に専念していたことから、浙江大学から推薦を受けることとなり、工業・機械工学の最高峰であった西ドイツのフンボルト財団(洪堡基金)の奨学金を得て、アーヘン工科大学に留学することとなった。
アーヘン工科大学に留学
路甬祥は、1978年に北京でのドイツ語研修を受けた後、37歳となった1979年に西ドイツに赴き、アーヘン工科大学に入学した。アーヘン工科大学では、流体伝動・制御研究所(IFAS)に属し、浙江大学時代と同様に流体伝動・制御工学の研究活動に没頭した。
路甬祥は留学から2年後に、油圧・水圧制御に係る「電液比例制御技術」を開発した。路甬祥は、この技術を欧米5か国と国際特許として申請し登録された。この特許を用いて製造されたのが「路(Lu)」のバルブであり、その改良されたバルブが建設機械などに現在も用いられているという。このような経緯もあって、路甬祥はわずか2年という短い期間で、工学博士の学位を取得した。
帰国して浙江大学に戻る
ドイツの大学は、優秀な路甬祥を国内に引き留めようとしたが、彼は「私のルーツは中国です。祖国はまだ貧しく、私のような人間が戻って近代化の建設に尽くすことを必要としています」と述べ、帰国への決意を示した。
路甬祥は、1981年に浙江大学に戻り、流体伝動・制御の研究を続行した。その4年後の1985年に、当時の学長から支えてほしいと言われ、副学長となった。さらに、その3年後の1988年に46歳の若さで、浙江大学の学長に就任した。
路甬祥は、1952年の院系調整によって単科の工科大学へと縮小していた浙江大学を、再び総合大学にするべく舵を切り、飛躍的な復活を遂げさせた。この大転換への貢献により、新中国建国後で最も偉大な浙江大学学長の一人と評価されている。
学術的な貢献も認められ、1991年に中国科学院学部委員(現在の中国科学院院士)に選出され、1994年には中国工程院院士にも選出された。
中国科学院院長に就任
路甬祥は1993年に、浙江大学学長在任のまま、中国科学院の副院長に任命された。翌1994年には、常務副院長(院内序列でナンバー2)に昇任した。
路甬祥は1997年7月、55歳という若さで中国科学院院長に就任した。郭沫若初代院長から数えて、5代目の院長であった。
十数年にわたる院長在任中に路甬祥が行った重要な政策は、「知識創新工程」の始動である。創新はイノベーションを、工程はプロジェクトを意味している。
プロジェクトの一つ目は、中国科学院の構造改革である。全体として重複しており非効率であった中国科学院傘下の研究機関を統合再編した。重点分野を決め、それに従って121あった研究所を89にまで減少させている。
二つ目は、若手人材の育成強化である。路甬祥の副院長時代の1994年に中国科学院が率先して外国に就労していた科学技術人材の帰国奨励政策「百人計画」を立ち上げたが、この百人計画を1997年に中国全体の政策とすることに大きく貢献した。また、旧来の終身雇用的な体制を改め、評価制度などによる競争的な人事システムの導入に踏み切っている。
三つめは、科学技術の国家ニーズへの貢献である。中国科学院で実施する研究テーマを、単に既存の優位性から選ぶのではなく、国の戦略的ニーズ(安全保障、民生、重大ハイテクなど)と世界の動向を勘案して選定していく体制へ移行させた。
路甬祥は、2011年に中国科学院を退任し、2013年には全国人民代表大会(全人代)常務委員会副委員長も退任している。
参考資料
・浙江大学機械工程学院HP 路甬祥
http://me.zju.edu.cn/mecn/2014/1024/c5753a406135/page.htm
・知乎HP 从浙大最有影响校长之一到中科院院长:路甬祥吃过的苦让天赋绽放
https://zhuanlan.zhihu.com/p/198203362
・新浪 路甬祥:为国家和民族的崛起强筋壮骨
https://news.sina.com.cn/c/2006-05-02/16069771143.shtml


