はじめに
劉家琨(Liu Jiakun、刘家琨、1956年~)は、2025年に建築のノーベル賞と言われるプリツカー賞を、イオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei、貝聿銘)、王澍(Shu Wang)に続いて、中国系では3人目として受賞した。

生い立ちと教育
劉家琨(Liu Jiakun、刘家琨)は、1956年に四川省成都市に生まれた。両親は医師であり、また兄弟や義理の姉なども医師であった。母親が成都第二人民医院に内科医として勤めていたため、幼少期はほとんどのこの医院の中で過ごした。そのような環境で育ったが、劉家琨は小さい時から絵を描くのが好きであった。
劉家琨は文化大革命の影響を大きく受けた世代に属している。劉家琨が小学生の時に文革が始まり、ほとんどまともな授業が行われなかった。17歳で高級中学(日本の高等学校)を卒業したが、卒業後はいわゆる下放政策により近くの田舎に行って、過酷な農作業を手伝わされた。
文革が始まった小学生のころから読書に興味を持っていたが、家庭にあったのは当時の風潮を受けて医学書が中心であった。それでも父が好きで所有していたソ連の小説や戯曲などを読んでいた。下放されてからは、退屈や青春期の感傷を紛らわせるために、下放の過酷な現実を題材にした人生初の小説を執筆し始めた。また、帰宅時には、魯迅の小説なども読んだ。
大学に進学し、建築学を学ぶ
劉家琨が20歳となった1976年暮れに四人組が逮捕され、文革が終了した。復活した鄧小平は、翌1977年に大学共通入試である高考を復活させた。復活後の最初の高考には、約10年間のブランクにより受験できなかった30歳以上の若者までが、大挙して受験した。一方、文革の影響を受けた大学側は受け入れ体制を考慮して合格者を絞らざるを得なかった。結果として、全国で約570万人が受験したが、合格者はその約20分の1である約28万人に過ぎなかった。
劉家琨も、この1977年の復活一年目の高考を受験した。志望大学を決める際に、劉家琨は大好きであった絵画を学ぶ大学に行くことを考えて、高級中学の教師と相談したところ、建築学科であれば理工系でありながら絵画も勉強できると勧められ、重慶建築工程学院(現在の重慶大学の一部)に入学することとなった。
建築学に失望
重慶建築工程学院に入学した劉家琨は、建築学科での絵画は製図であり、自分の追い求めていた芸術的な美術とはかけ離れていると感じ、建築学への興味を失った。学生時代には、一種の逃避的な行動として、小説を書いていた。
劉家琨は、1982年に重慶建築工程学院を卒業し、成都市建築設計研究院の職員となった。1984年から2年間、四川省と接するチベット自治区にあるナクチュ市へ派遣された。当時劉家琨は、建築への興味が減じていて文学に没頭していて、昼は建築家として働き、夜は作家に変身して文学創作に専念した。1987年から1989年まで四川省文学院に出向し、小説執筆に専念することが出来た。そして、1980年代後半から1990年代にかけて小説を発表し、四川省を代表する小説家の一人となった。代表作品は、1996年に完成した反ユートピア長編小説「明月構想(明月构想)」である。
友人の個展で建築に回帰
小説家的な生活を送っていた1993年、劉家琨は上海美術館で大学時代の友人・湯樺(汤桦、Tang Hua)の個展を見て、再び建築に対する情熱を持つこととなった。湯樺は、深圳を拠点とし、中国国内で数々の近現代建築や文化施設の設計を手掛ける著名な建築家である。
1995年、劉家琨は画家の友人からアトリエ兼住居の設計を依頼された。劉家琨は、小説執筆で培った物語性と素材を活かす手法を実験的に取り入れ、中国建築界から芸術家アトリエシリーズの代表作として絶賛を浴びた。
1996年に小説「明月構想(明月构想)」を刊行した劉家琨は、建築家を本務とすることを決意し、1999年に成都市に「家琨建築設計事務所(Jiakun Architects)」を設置した。
優れた建築作品を手掛ける
劉家琨の作品は、画一的なスタイルに縛られることなく、建築物が設置される土地の安価な素材(コンクリートや廃レンガなど)を工夫して使い、「そこに暮らす人々の日常の器となること」を一貫して追求しているのが特徴である。
具体的な作品を挙げると、
○鹿野苑石刻芸術博物館(四川省成都市、2002年竣工):鬱蒼とした緑のなかに、打ち放しコンクリートの静謐な建物が佇む。コンクリートの型枠に現地の粗末な木板を使用したことにより、表面に独特の素朴な木目が残り、周囲の自然や展示されている古い仏教石刻と見事に調和している。
○胡慧珊記念館(四川省成都市、2009年竣工):2008年の四川大地震で亡くなった15歳の女子学生・胡慧珊を追悼する小さな記念館であり、被災地の仮設テントをモチーフにした素朴なコンクリート製の建物である。
○西村大院(四川省成都市、2015年竣工):複合商業・文化施設で、 巨大な街区をまるごと囲むように建物を配置し、中央に広大な中庭(巨大な盆地のような空間)が配置されている。建物の屋上から中庭へとつながる全長1.5kmに及ぶ空中遊歩道があり、ここを市民がランニングしたり自転車で走ったりできる。

○御窯金磚博物館(江蘇省蘇州市、2016年竣工):北京にある紫禁城に使用されていた高級レンガ「金磚(きんせん)」の歴史を伝える博物館である。伝統的な中国の庇や回廊のフォルムを現代的に再解釈し、レンガの持つ重厚な質感と光のコントラストを有する空間を創り出した。
プリツカー賞を受賞
劉家琨は、2025年にプリツカー賞を受賞した。プリツカー賞は、米国のハイアット財団が授与しており、建築界のノーベル賞と言われている。日本人では、1987年に丹下健三が受賞したのを初めとして、安藤忠雄、磯崎新などが受賞している。中国関連では、広州に生まれ米国籍となったイオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei、貝聿銘)が1983年に受賞している。一方、中国国籍を有する中国人建築家としては、王澍(Shu Wang)が2012年に受賞しており、劉家琨は2人目の受賞者となった。
授賞理由について、賞の主催団体であるハイアット財団の会長・トーマス・プリツカーは、「劉家琨は建設プロセスと建築機能の両面から精神性を高め、コミュニティを結びつける感情的な絆を育んでいる。彼の建築は知恵に満ち、哲学は表面を超越し、歴史、材料、自然が共生していることを明らかにしている」と述べている。
参考資料
・美華HP 刘家琨:一个建筑设计“逆行者”
・四川日报HP 专访普利兹克建筑奖得主刘家琨:“和自然共生”,代表了东方人的生存智慧
・有方HP 刘家琨访谈:真实比形式的纯粹更重要

