はじめに
楊振寧 (杨振宁、1922年~) は、1957年に李政道と共にノーベル物理学賞を受賞した。
父親は著名な数学者
楊振寧(杨振宁、ようしんねい、Chen-Ning Franklin Yang)の父親である楊武之は、安徽省合肥生まれの数学者である。
楊武之は、北京高等師範学校(現北京師範大学)の数学科を卒業し安徽省に帰って中学校の教師となったが、結婚して楊振寧が生まれた頃に安徽省の公費留学生試験に合格し、妻と10か月の幼児であった楊振寧を残して1923年に米国に留学した。米国でも数学を専攻し、スタンフォード大学で学士号を取得の後シカゴ大学に移り、同大学から1926年に修士号、1928年に博士号を取得している。
1928年に米国から帰国し、厦門大学で1年間教えた後、1929年から20年以上にわたり清華大学(日中戦争中の西南連合大学を含む)で数学科の教授として後進の指導に当たった。新中国建国後は、上海の同済大学や復旦大学で教鞭を執っている。
生い立ちと国内での教育
楊振寧は、1922年に父と同じ安徽省合肥で生まれた。
父親の楊武之が米国留学から帰国し大学の教職に就くと、楊振寧も父親に従って厦門、北京と移り住んだ。北京の中学校に在学中であった1937年に盧溝橋事件が発生し、北京には日本軍が侵攻した。父親が勤務していた清華大学は、北京大学や南開大学(天津)と合同で西南連合大学を結成し、戦火を逃れて大陸西部に移転することになった。楊振寧も父と苦難の旅に同行し、広州、香港、ハノイと移動して昆明に到達した。
1938年に飛び級で西南連合大学に入学し、化学科を経て物理学科で勉学に励んだ。1942年に同大学を卒業し、さらに1944年には修士号を取得した。
なおこの時期に楊振寧を指導したのは、北京大学教授で当時西南連合大学にいた呉大猷である。呉大猷は中国近代物理学の基礎を築いた一人であり、米国ミネソタ大学で博士号を取得し北京大学教授となったが、その後日中戦争の戦火を逃れて西南連合大学に移っていたのである。
米国への留学
楊振寧は、米国の賠償返還金を元に設置された清華大学による米国留学生(清華留美公費生)試験を受験して1944年に合格し、翌1945年に父楊武之も学んだシカゴ大学に留学した。
シカゴ大学では、イタリア出身で中性子の研究でノーベル物理学賞を受賞したエンリコ・フェルミ教授に師事し、1948年に博士号を取得している。
ほぼ同時期の1946年から1950年まで、李政道がやはりエンリコ・フェルミの元で大学院生活を送っている。
李政道と共にノーベル賞を受賞
シカゴ大学で博士号を取得の後、楊振寧はプリンストン高等研究所にポスドク研究を開始した。この頃から李政道と素粒子の理論研究を共同で始めた。
1956年に楊振寧は李政道と共に、素粒子間の弱い相互作用においてはパリティ(対称性)が保存されないとの理論を提唱し、「フィジカル・レビュー」誌に発表した。
この理論は、中国系でコロンビア大学の先輩女性物理学者・呉健雄が主導した実験チームにより実証された。
楊振寧は李政道と共に、この功績により翌1957年のノーベル物理学賞を共同受賞した。
李政道と不仲に
ノーベル賞受賞後、楊振寧は李政道と不仲となった。大きな原因と考えられるのは、共同で受賞したノーベル賞受賞時の二人の序列だと言われている。年齢から言っても、西南連合大学やシカゴ大学の年次で言っても、楊振寧が先輩であった。したがって、楊振寧は当然自分の方が主導的な立場にあると考えていた。しかし、ノーベル賞選考委員会の発表では、ノーベル賞受賞の元になった「フィジカル・レビュー」での論文の著者名の順番に従い、李政道が先で楊振寧が後であった。このことが楊振寧の自尊心を大きく損ない、ノーベル委員会に抗議をしたところ授賞式当日の出番で序列が逆転したため、今度は李政道が大きなショックを受けた。こういったことから、二人が不仲となったという。
その後二人の協力は途絶えていたが、1995年に、二人のノーベル賞受賞のきっかけを作ってくれた呉健雄を記念して、意欲的な若い研究者に奨学金を与える目的で台湾に呉健雄学術基金会 (the Wu Chien-Shiung Education Foundation)を設立する話が持ち上がった際、楊振寧と李政道は台湾のノーベル化学賞受賞者李遠哲、中国系米国人でノーベル物理学賞受賞者サミュエル・ティン(丁肇中)と相談し、呉健雄基金の設立に尽力している。
新中国との関係
楊振寧のノーベル賞受賞が決まった1957年は、新中国が義勇軍を派遣して米国を中心とする国連軍と戦った朝鮮戦争が休戦となった4年後であり、両国間を自由に行き来する状況ではなかった。当時、上海の復旦大学の数学科の教授であった父・楊武之は息子のノーベル賞受賞を大いに喜び、わざわざスイス・ジュネーブに赴いて、楊振寧と会って喜びを分かち合った。
その後も何度か父親とはジュネーブで会ったが、父が病気となった1971年、楊振寧は新中国訪問を決断する。この時期の中国は文化大革命の混乱が小康状態となり、国際的にも国際連合総会でアルバニア決議が採択され、台湾政府に代わって安全保障理事会常任理事国となった時期であった。帰国した楊振寧は、上海で病床にあった父を見舞うとともに、北京に赴き北京大学や清華大学などを訪問して、かつての友人との再開を楽しむとともに、人民大会堂で周恩来首相に会っている。
二人目の妻
楊振寧は、1950年28歳の時に7歳年下で西南連合大学時代に知り合った杜致礼とプリンストンで結婚している。杜致礼は、蒋介石指揮下の国民党軍の軍人であった杜聿明の娘であり、杜聿明は日中戦争で活躍したが、その後の国共内戦で人民解放軍の捕虜となり、後に釈放されて新中国での余生を送った人である。楊振寧と杜致礼の間に、男子2人女子1人が生まれたが、2003年に杜致礼は病のため74歳で亡くなった。
その直後2004年、82歳となった楊振寧は、広州市にある広東外語外資大学の修士課程の学生で54歳年下の28歳であった翁帆と再婚したことで、世界のマスコミを賑わせた。
国籍
楊振寧は、国籍を巡ってもマスコミで取り上げられている。元々国籍は中華民国であり、新中国建国時には米国に渡っていたため中華民国の国籍はそのまま維持され、ノーベル賞受賞時は中華民国の国籍であった。そして、ニュージャージー州にあるプリンストン高等研究所にいた1964年に、計算機科学者の姚期智と共に、米国籍を取得した。
楊振寧は、1994年に中国科学院院士に選任されたが、このときには前回取り上げた李政道などと同様に外国籍の初めての院士となっている。
しかし、中国本土の関係者との科学技術交流を徐々に深めていた楊振寧は、2015年に中華民国籍と米国籍を放棄し、中華人民共和国国籍を取得した。これにより中国科学院の外国籍院士でなくなったため、中国科学院は2017年に楊振寧を改めて通常の院士に選任している。
参考資料
・Lee, T. D.:Yang, C. N. "Question of Parity Conservation in Weak Interactions" Physical Review 104 (1):254–258 (1956)
・楊 振寧 (著)、林 一 (訳) 『素粒子の発見―核物理学の歩み』みすず書房 1968年
・サイエンスポータルチャイナ「楊振寧氏と姚期智氏、中国科学院院士に」2017年2月22日https://spc.jst.go.jp/news/170203/topic_3_01.html
・江才健『楊振寧伝(増訂版:中国語)』天下文化社、2020年