はじめに

 万鋼(万钢、Wan Gang、1952年~)は、ドイツに留学して博士号を取得の後アウディに入社し、中国に帰国して同済大学学長を経て国務院科学技術部長(科学技術担当の国務大臣に相当)に就任した。

2025年の科学者追加の一人万鋼の写真
万鋼 中央人民政府HPより引用

生い立ちと下放

 万鋼(万钢、Wan Gang)は、1952年に上海市で生まれた。生家や両親の情報はネット上にないが、黒五類とされる家に生まれたため文化大革命(文革)中には下放されたとある。
 黒五類とは、文革初期に革命階級の敵として分類された地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派の5つの社会階層を指す。文革当初は革命派による激しい迫害を受けたが、文革中期には教育や労働により更生可能とされ地方の農村などに下放された。

 万鋼が13歳となった1965年末頃から文革が始まり、1966年には紅衛兵運動などにより文革が激しさを増した。しかし、多くの青少年が無職のまま紅衛兵運動に没頭し派閥の分裂や争いが起こったため、毛沢東は「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」として1968年に下放(上山下郷運動)政策を発動した。
 万鋼は、17歳となった1969年に、下放により吉林省延辺朝鮮族自治州にある延吉市に行き、農作業に従事した。下放された村の共産党書記は万鋼に目をかけてくれ、「人生に必要なものは頭脳と体力だ」として、農作業に励むよう促した。さらに、その書記の推薦もあり、万鋼は1974年に生産隊長に抜擢された。

高等教育を受ける機会を得る

 万鋼は1975年に、工農兵学員(工农兵学员、工場、農村、軍隊で優れた若者で共産党などから大学入学を推薦された学生)として、黒竜江省ハルビン市にある東北林業大学に入学した。文革中は、全国統一の大学入試である高考が中断されており、代わりに共産党などの推薦により大学への入学者が決められていたのである。

 万鋼は1978年に、優秀な成績で東北林業大学を卒業し、同大学の物理学を教える助教となった。翌1979年には故郷の上海に戻り、同済大学大学院に進学した。2年後の1981年に同大学を卒業して修士学位を取得し、同大学の教師となった。

ドイツに留学

 万鋼は世界銀行の奨学金を獲得し、1985年にドイツのクラウスタール工科大学(Technische Universität Clausthal)大学院機械工学科に留学した。同大学は、ドイツ北西部のニーダーザクセン州の州都ハノーバーから電車で約1時間のクラウスタール-ツェラーフェルトにある。小規模ではあるが、機械工学や工業工学でドイツトップクラスの大学となっている。

 万鋼は1991年に、同大学を卒業して博士学位を取得し、自動車メーカーであるアウディに入社した。アウディでは、技術開発部、生産部、全体企画部などで、約10年間勤務した。

母校同済大学に戻る

 中国政府は2001年に、新エネルギー自動車(電気自動車、ハイブリッド車、水素自動車など)の開発プロジェクトを立ち上げた。万鋼は同年に、アウディを退社して母校同済大学に戻り、新エネルギー自動車工学センター(新能源汽车工程中心)の主任となった。

 万鋼は2004年に、同済大学学長に就任した。

国務院科学技術部長に就任

 万鋼は2007年に科学技術部部長に就任した。科学技術部は、中国国務院の組成部門(日本の各省に相当)の一つであり、中国の科学技術政策の企画立案を担当している。同部は、日本の旧科学技術庁に近い組織であり、部長は日本の国務大臣に相当する。

 万鋼は、2018年までの約11年間にわたり科学技術部長を務めたが、この時期は中国の驚異的な経済発展に支えられて科学技術も大きく進展した時代であった。在任中、第11次五か年計画(2006年~2010年)第12次五か年計画(2011年~2015年)第13次五か年計画(2016年~2020年)の策定や実施に、多大な貢献をしている。

 2018年に科学技術部長を退任したのち、万鋼は中国科学技術協会(中国科学技术协会)の主席となり、引き続き中国の科学技術界を指導している。

所属政党は致公党

 万鋼は、中国の要人としては珍しく共産党に所属しておらず、民主会派の一つである致公党の幹部である。

 中国では、共産党が国家を領導すると憲法に明記されていて絶対的な地位にあるが、それ以外に中華人民共和国建国前から存在していて民主会派と呼ばれる合法的な政党が8つあり、これらの民主会派は憲法前文で新民主主義革命達成と社会主義建設の過程で共産党と統一戦線を組んだ存在とされている。中国の国会に当たる全国人民代表大会(全人代)に議席を有している。
 そのうちの一つが万鋼の属する中国致公党であり、1925年に帰国華僑の政党として設立された。

 国家統治機構の中枢たる国務院の部長に、中国共産党に所属しない人物が就任することは極めてまれであり、万鋼以前では、新中国建国直後に中央人民政府水利部部長に就任した傅作義(傅作义)のみである。
 傅作義は軍人であり、日中戦争で国民党軍の幹部として戦い、国共内戦でも共産党と戦ったが、1949年1月には共産党と協議の上、当時傅作義が支配していた北京を開放し、共産党の支配を受け入れる無血開城を決断した。

 なお、同じ2007年に中国科学院副院長であった陳竺が、やはり国務大臣クラスである衛生部長に就任したが、陳竺も共産党員ではなく無党派であった。なお陳竺は、衛生部長を退任の後、2012年に民主会派の一つである中国農工民主党に入党し、直後に同党の主席となっている。

日本との関係

 万鋼は、長きにわたり科学技術部長を務めたこともあり、日本にも知己が多い。

 万鋼は2017年に日本を訪問し、松野博一文部科学大臣と会談している。また2022年9月には、中国の代表として故安倍晋三元総理の国葬に参列している。 

参考資料

・中国中央人民政府HP 万钢 https://www.gov.cn/guoqing/2013-03/11/content_2583167.htm
・大衆网HP 万钢:35年来 民主党派人士首任部长
https://www.dzwww.com/synr/dzft/200704/t20070428_2130333.htm
・捜狐汽車HP 万钢和他的博士生奥博穆
https://cul.sohu.com/a/856771037_121777