中国人研究者とノーベル賞について、日本国際貿易促進協会が旬刊誌として発行している「国際貿易」の2023年2月15日号に投稿した記事を、一部修正の上で紹介する。

中国人研究者とノーベル賞

 2022年度のノーベル物理学賞は、「量子もつれ」の研究によりウィーン大学のアントン・ツァイリンガー教授ら3名が受賞した。中国の研究者らは、このニュースを複雑な気持ちで聞いたに違いない。

 中国人とノーベル賞の関係は日本と同様に古く、湯川秀樹博士が物理学賞を受賞した1949年から8年後の1957年に、楊振寧李政道両博士が素粒子のパリティ対称性の研究で同じく物理学賞を受賞している。
 二人ともれっきとした中国人であり、中国で高等教育を受けた後渡米してシカゴ大学のエンリコ・フェルミの元で博士号を取得し、米国で研究を続けていた。

 中国共産党による中華人民共和国の建国は1949年10月であり、その時期には両名とも米国にいて、ノーベル賞を受賞した時の国籍は中華民国であった。

初受賞は三無の屠氏

 その後も、在米の中国本土出身の科学者や台湾や香港などからの研究者がノーベル賞を受賞しているが、残念ながら中華人民共和国国籍の研究者は一人もいなかった。

 そこで、中華人民共和国国籍の科学者がノーベル賞を受賞することが、中国科学界の悲願となっていた。そしてついに2015年、中国中医科学院の屠呦呦研究員が、マラリアに対する新たな治療薬に関する発見により、日本の大村智博士らとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 しかし、彼女は三無科学者(博士号を持たない、留学経験がない、中国科学院の院士ではない)ということで、中国科学界の反応は必ずしも屠呦呦に対し好意的ではなかった。現在の中国科学界における正統派の学者・研究者とはかけ離れた経歴であったのである。

31歳で母校教授

 以降、より正統派と思われる中国人研究者のノーベル賞受賞が待望された。

 期待の筆頭にあったのが、安徽省合肥市にある中国科学技術大学の潘建偉(潘建伟、Jianwei Pan)博士であり、同大学の副学長でもある。潘博士は1970年に浙江省東陽に生まれ、1995年に中国科学技術大学で物理学の修士号を取得した。翌1996年にオーストリアに留学し、昨年ノーベル賞を受賞したツァイリンガー教授の指導を受けた。同大学から博士号を取得した後も引き続きポスドクとしてツァイリンガー教授の元で量子科学の研究を続けた。

潘建偉の写真
潘建偉 百度HP

 潘博士は百人計画に当選して2001年に帰国し、31歳という若さで母校の物理学科教授に就任した。中国に帰国した潘博士は、恩師とも協力しつつ、量子科学の進展に大きな実績を挙げていった。
 潘博士は、国内の地点を結んでの量子通信実験や欧州や米国などとの共同の実験を繰り返した後、2016年8月に世界で初めての量子通信衛星「墨子号」を打ち上げ、地上地点と宇宙を結んでの量子通信実験を成功させた。
 また潘建偉は、量子科学のもう一つの重要な応用である量子コンピュータの開発にも取り組み、世界的にも優れた計算能力を実現させた。

 このため中国の科学界は、潘建偉博士が恩師ツァイリンガー教授と一緒にノーベル物理学賞を受賞することを強く待ち望んでいたが、今回潘教授は受賞できなかった。

 近年の科学研究は多くのテーマに分岐しており、特定のテーマでノーベル賞受賞が続くことはまずない。従って潘博士の受賞が大きく遠のいたことは間違いなく、中国科学界は失望を味わうことになったのである。

二番煎じから脱却

 筆者は、潘博士が切り開いてきた研究開発の道は、中国の科学技術進展へ大きな模範を示したと考えている。

 中国では、今世紀に入っての経済成長に伴い科学技術が急速に発展してきたが、これまでは欧米などの先導的な研究を受けての二番煎じ的な研究が多かった。

 しかし潘博士は、従来の二番煎じではなく世界のトップグループに伍して数々の業績を積み重ねてきており、画期的なものであった。したがって、ノーベル賞に届かなかったとしても失望することは何もない。さらに今後、量子通信や量子コンピュータの応用や実用化で画期的な成果を挙げることにより、潘博士のノーベル賞受賞は十分にあり得る。

 潘博士が、これまで通り量子科学の国際的な発展に向けての努力を継続・強化されることを期待したい。

ライフサイエンス振興財団理事長・国際科学技術アナリスト
林 幸秀