はじめに
詹天佑は、清朝末期に米国に留学し、帰国後中国の鉄道建設に尽力して「中国鉄道の父」と呼ばれた。
生い立ちと教育
詹天佑(、Tianyou Zhan)は、1861年に広東省南海(現在広州市)に生まれた。父親は、代筆をしたり、印鑑を彫ったりして生計を立てていた。小さい頃から近くの私塾に通って勉学に励んだ。
詹天佑は、容閎が主導した留美幼童政策の第一回留学生選抜試験に合格し、11歳となった1872年に他の同輩30名と共に米国に渡った。米国に到着後の1873年には、コネチカット州ウェストヘーブン小学校に入学し、同校校長であったL・Hノースロップ家にホームステイした。詹天佑は1878年に、イェール大学シェフィールド理工学院土木工学科に入学し、1881年に卒業した。卒業論文のテーマは「埠頭のクレーン研究」であった。
卒業後もイェール大学での研究続行を望んだが、母国の清政府が留学生の早期撤退を命じたため、やむなく詹天佑は帰国した。この時点で米国の大学を卒業していたのは、後に外交官となった欧陽庚と詹天佑の2名だけであった。
中国鉄路公司に就職
1881年に帰国後は、福建省の福州船政局で軍艦操縦の実習などを行った後、同船政局に付置されていた「福州船政学堂」の後学堂で英語を教えた。さらに1884年には、広東省広州市に設置された「広東博学館(後に広東水陸師学堂と改名)」に移り、やはり英語を教えた。
1888年、27歳となった詹天佑は、李鴻章らが天津に設立した中国鉄路公司に職を得て、英国人技師のクロード・ウィリアム・キンダーの下で、見習い技術者として鉄道技術を学んだ。キンダーは、ロシアのサンクトペテルブルクで鉄道工学を学び、1873年に父親がいた日本に渡り、明治政府の工部省鉄道寮のお雇い外国人技術者となった。ところが1878年に西南戦争が起こったため、キンダーは中国の上海に渡り、その後中国鉄路公司で技術者となった。
キンダーの父親のトーマス・ウィリアム・キンダー(当時はキンデルとも呼んでいた)は、明治時代の1871年に大阪の造幣局が出来た際、トップの造幣首長に任命されている。父キンダーは大英帝国の元少佐であり、香港造幣局長も務め日本の造幣局の基盤を築いた人物ではあるが、気位が高くかつ激しい気性の持ち主であったため明治政府の井上馨らと折り合いが良くなく、1875年には造幣首長を退任している。
津楡鉄路、津盧鉄路などの工事を担当
詹天佑は、唐山から天津に至る唐津鉄路の建設に携わり、その時の仕事ぶりから上司のキンダーに認められ、ほどなく正規の技術者に昇任した。
1890年、中国鉄路公司は天津から山海関に至る津楡(しんゆ)鉄路の建設を開始した。津楡鉄路では灤河(らん、河北省と内モンゴル自治区に流域がまたがり、渤海へと流入する大河)に橋梁を架ける必要があったが、灤河に杭を打つ作業が難航して、英国人技師らの努力もむなしく鉄道建設工事が進まなかった。
そこで、詹天佑が橋梁建設工事の責任者となり、中国人作業員だけで気圧潜函法を用いて橋脚を作り、最終的に1894年に橋梁を架けることに成功した。全長640メートルに及ぶ鋼鉄製の橋梁で、当時の中国最長のものであった。この功績により詹天佑は、英国土木技術師学会の会員に中国人として初めて推挙されている。
中国における鉄道建設の第一人者となった詹天佑は、その後津盧(鉄路や欽州鉄路などの建設を担った。
京張鉄路の建設
詹天佑は1905年に、北京から張家口に至る京張鉄路建設の主任技師を任された。この鉄路の敷設予定地は戦略的な要衝であり、中国の植民地支配拡大を狙う英国、ロシアなどが敷設権を得ようとして、予備調査を繰り返していた。しかし、同鉄路の途中にある燕山山脈には非常に険しい峰が多くあり、その峰の一部は花崗岩や玄武岩で構成されており、当時一般的に使用されていた「発破工法」を実施することが難しいとして、工事不可能という調査結果が出ていた。このため清側の責任者であった袁世凱は、外国の資金を使用せず外国人を使わないと決定し、京張鉄路全部を中国人だけにより建設することとした。
主任技師となった詹天佑は、この建設工事は中国人技術者の名声と栄誉に関わると考え、自ら測量を行い3本の計画路線を選定し、さらにその中で建設費用の最も安い路線を建設対象とした。京張鉄路には4つのトンネルが設置され、中でも八達嶺トンネルは長さが1,092メートルであり、詹天佑はこの難工事を立杭工法により掘削した。また、八達嶺の断崖絶壁にはスイッチバックを設置し、地形の問題も解決した。
京張鉄路は、4年の歳月をかけ1909年に無事完成した。予定の工事期間を2年間も短縮し、建設費用も節約することができた。京張鉄路の建設の成功は、中国の近代鉄道工事史の重要な業績となった。
詹天佑は京張鉄路の建設期間中、各種の鉄道工事規格を改定し、その規格を全国で採用するよう政府に意見書を提出した。中国が現在でも使用している軌間1,435ミリメートルの標準軌の採用、米国人鉄道技師のイーライ・ジャニーが1873年に発明した自動連結器の導入などは、詹天佑が提議したものである。
そのほか、詹天佑は鉄道人材の訓練育成に力を入れ、技術師昇進規定を制定し、工事者に対する評定や要求を明文化した。また、技術師の報酬と評定成績は連動すると定めた。京張鉄路は多くの中国技術師を訓練育成し、詹天佑が制定した評定・規定は他の中国鉄道の規範となった。
京張鉄路の建設後、詹天佑は宣統帝から工科進士を賜り、留学生主任試験官などの職に就いた。辛亥革命の後、1913年に新政府の交通部技監に任命され、1916年には香港大学から栄誉法学博士号を与えられた。1919年にはウラジオストクとハルビンで開催される遠東鉄路会議の中国代表に任命されたが、病を得て住居のある湖北省漢口(現在の武漢市の一部)に戻り、同年4月に没した。享年59歳であった。
詹天佑は「中国鉄道の父」と言われ、中国土木工学界の最高賞である「中国土木工程詹天佑賞」にその名が残されている。
参考資料
・管成学 赵骥民 『中国鉄路之父:詹天佑的故事』吉林出版集団 2012年