はじめに

 容閎は、清朝末期に米国に留学し、米国留学制度の先鞭となった留美幼童政策を推進した。中国の近代科学技術を支え育んだ人たちは、圧倒的に米国に留学した経験を有している。

容閎の写真
1909年に発行された『西學東漸記』卷首
の挿絵の容閎

生い立ちと教育

 容閎(容闳、(ようこう、Yung Wing)は、1828年に広東省香山県の農家に生まれた。香山県は現在の珠海市であり、南にマカオが隣接している。海を挟んで東側には香港島が存在する。広東省の省都である広州市は、約150キロメートル北に位置している。

 1835年、7歳となった容閎は父親に従ってマカオに行き、キリスト教宣教師夫人が運営する学校に入学した。アヘン戦争の結果香港が英国に割譲されたのを機に、容閎の学んでいた学校が香港に移転したため、容閎も香港に移動した。
 1847年、容閎の学んでいた学校の校長サミュエル・ブラウン牧師が、病気となった夫人とともに米国に帰国することになり、容閎ら生徒3人を同行させることとした。米国に到着した容閎らは、マサチューセッツ州の大学予備校(ウィルブラハム・モンソン・アカデミー)に入学した。

 容閎らを同行させたブラウン牧師は、日本とも関係が深い。ブラウン牧師は、マカオから帰国した後、今度は日本でのキリスト教布教のため1859年に来日している。そして、聖書の和訳やキリスト教団の発展に尽力するとともに、ヘボン式ローマ字の考案者として有名なジェームス・カーティス・ヘボンらとともに英語教育にも携わり、明治学院の基礎を築いている。

洋務運動への貢献

 容閎は1850年に、ウィルブラハム・モンソン・アカデミーを卒業し、コネチカット州にあるイェール大学に入学した。1854年には同大学を無事に卒業し、文学士の学位を取得している。この間、キリスト教に入信するとともに、米国国籍を取得した。

 イェール大学を卒業後は中国に帰国し、在広州米国公使館や上海税関などの通訳などの業務に就くとともに、絹糸やお茶の国際的な売買などに携わった。
 当時中国大陸は、清と太平天国が共存する形となっており、容閎は太平天国が中国の近代化のきっかけとなると考えて、1860年に太平天国の都のあった南京(天京)に赴いて軍備や教育制度に関する提案を太平天国の幹部に提出するも、容れられなかった。

 1863年、今度は李善蘭の紹介で、曾国藩に謁見する機会を持った。容閎は翌1864年に、曾国藩の命を受けて米国に赴き、中国国内の武器製造所で用いる様々な機械を購入し持ち帰った。この機械購入の成功により、容閎は曾国藩の信頼を得ることとなった。

留美幼童政策の立案・実施

 容閎は、その後要人の通訳などの仕事をしていたが、中国の子供達を米国に留学させ、将来の中国を背負って立つ人材に育てる計画を思い立ち、1870年に曾国藩にその旨を提案した。曾国藩は李鴻章と相談し、1872年から「留美幼童」と呼ばれた中国初めての海外留学生派遣政策を実施させることとした。
この政策は、上海、福建、広東など中国の沿岸地域の10歳から16歳までの少年(幼童)を毎年30名選抜し、米国(中国語で美国)に留学させて(留美)軍事や船政を習得させた後、中国に帰国させるという壮大な計画であった。そして容閎は、在米公使館の副公使として米国に滞在することになった。

留美幼童で留学した少年達
留美幼童政策の留学生たち 百度HPより引用

 留美幼童政策は当初順調に推移し、1872年から4年間に毎年30人ずつ全体で120人の少年が米国留学に出発した。米国では、全ての少年が米国人家庭でホームステイし英語の習得に励んだ後、高等教育に進んだ。
 1881年時点で、22名がイェール大学、8名がマサチューセッツ工科大学(MIT)、3名がコロンビア大学、2名がハーバード大学に進んだという。

 ところが、留学生の中からキリスト教徒となるものが出たり、米国の軍関係の学校がこれらの留学生の受け入れを拒否し最終目的の軍事や船政の習得が困難となったりしたことから、1881年に清朝政府は留美幼童政策を中断し留学者全員に帰国命令を発した。容閎は失意のうちに留学生と一緒に帰国した。

戊戌の変法と辛亥革命

 容閎は、留美幼童政策中断への失望から再び米国に渡航したが、日清戦争で清が敗北したことを強く憂えて北京に帰国した。しかし、1898年に光緒帝により開始され)戊戌(ぼじゅつ)の変法に関与するも失敗したため、北京を脱出し香港に逃れた。

 その後、孫文の知己を得て、革命運動を米国から支援した。1911年末に辛亥革命が成功し、孫文が臨時政府の大総統に就くと容閎に帰国を促す手紙を送ったが、容閎は病床にあり帰国はかなわず、1912年4月コネチカット州ハートフォードで84歳の生涯を閉じた。

参考資料

『西学東漸記 容閎自伝』(百瀬弘訳注、坂野正高解説)