はじめに
周培源は、一般相対性理論や乱流の研究で有名な物理学者であり、文革終了後に北京大学学長を務めている。

生い立ちと教育
周培源(Peiyuan Zhou)は、1902年に江蘇省宜興市(現在は無錫市の一部)に生まれた。父は農業の傍ら村で教育者として活躍し、比較的裕福であった。
周培源は、3歳半で私塾に通い、その後小学校に通った。小学校に通っていた1911年に辛亥革命が起こって一家は南京に移動し、周培源は転校を余儀なくされた。さらにその後一家は上海に移り、周培源はそこで漸く小学校を卒業した。
周培源は1918年に、上海にあった聖ヨハネ大学附属中学に入学した。ところが翌1919年に五・四運動が起こり、周培源は仲間と共にこの運動に参加したため、学校から退学処分を受けた。
退学処分を受けたことを知った周培源の父は激怒したため、故郷の宜興市に逃れ潮音寺というお寺にこもって一人勉学に励んだ。ある日、新聞を読んでいると、北京の清華学校(現在の清華大学)が江蘇省で5名の編入生を募集しているとの記事を見つけた。周培源は、この記事に引かれて南京に赴いて編入試験を受けたところ、見事合格した。
清華大学を経て米国に留学
1919年の秋に、周培源は一人で北京に行き、清華学校中等部に入学した。
周培源は、清華大学中等部で水を得た魚のように勉学に励んだ。成績も優秀であり、特に数学と物理学に優れていた。
この頃科学の世界で大きなニュースが欧州からもたらされた。後にノーベル賞を受賞するアインシュタインが1916年に一般相対性理論を発表し、このことが中国でも大きなニュースとなっていた。周培源は、この一般相対理論に深い関心を持ち、工学への道を断念して理学の道に進むことを決意した。
中等部を優秀な成績で卒業した周培源は、清華大学本科に進学し、引き続き勉学に励んだ。
周培源は、1924年に清華大学を優秀な成績で卒業し、庚款留学生となって米国に留学した。米国では、中西部の名門シカゴ大学に入学し、アインシュタインへの関心もあって物理学を専攻した。
勉学に励んだ周培源は、2年後の1926年春に学士学位を、同年夏に修士学位をそれぞれ取得して、同大学大学院を卒業した。
周培源は、翌1927年にカリフォルニア工科大学に転校した。カリフォルニア工科大学では、英国スコットランド生まれの数学者でベル数列、ベル多項式などで知られるエリック・テンプル・ベル(Eric Temple Bell)教授に師事した。周培源は翌1928年に、「アインシュタインの万有引力理論における回転対称性を持つ物体の重力場(The Gravitational Field of a Body with Rotational Symmetry in Einstein's Theory of Gravitation)」と題する博士論文により、カリフォルニア工科大学から「Summa Cum Laude(最優等位)」として理学博士学位を取得した。
帰国して清華大学教授に
博士学位を取得した周培源はその後欧州に渡り、ドイツ・ライプツィヒ大学で後のノーベル賞受賞者のヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg)教授の指導で量子力学の研究を、続いてスイス・チューリッヒ工科大学でやはり後のノーベル賞受賞者のヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli)教授の指導で量子力学の研究を行った。
1929年、27歳となった周培源は中国に帰国し、母校である清華大学物理学科の教授となった。同大学最年少の教授であった。
米国に戻りアインシュタインの指導を受ける
1936年、周培源は清華大学のサバティカル制度を利用して、再度米国に渡り、プリンストン高等研究所に所属した。プリンストン高等研究所には当時、ドイツから亡命したアインシュタインがいて、自ら一般相対性理論セミナーを主宰していた。周培源は、このセミナーに参加し、アインシュタインの直接指導を仰ぎながら相対論的重力理論や宇宙論の研究に従事した。

百度HPより引用
中国に帰国し清華大学に戻る
周培源は、1937年にサバティカルを終え中国に帰国し清華大学に戻ったが、同年夏に日中戦争が勃発し日本軍が北京を占領したため、清華大学は西部への疎開を余儀なくされた。周培源は、家族を引き連れて西部雲南省に移動し、北京大学や南開大学(天津)との連合大学・国立西南連合大学に籍をおいて、物理学を教えた。
周培源は、科学の力で中国を救おうとして、軍事的な応用が可能な物理学の習得を考え、弾道力学、空気力学などの研究をベースとして乱流理論の研究を始めた。
周培源は、第二次大戦中の1943年に米国に渡り、母校カリフォルニア工科大学で乱流理論の研究を続行した。同大学で優れた研究を行ったことが米国政府にも伝わり、米国政府は戦時科学研究開発局海軍兵器試験所に招聘され、空中から水中に発射する魚雷の研究を行った。
北京大学の学長に就任
周培源は1947年に中国に戻り、清華大学教授に復帰した。
新中国建国後の1952年に、ソ連の教育制度を範とした大々的な大学再編政策である院系調整が、中国全土で実施された。周培源がいた清華大学は、工学系の単科大学として北京大学工学部を吸収し、逆に理学系はほとんど北京大学に吸収された。このため、周培源は北京大学教授となった。
文化大革命が始まり、多くの文化人、教育者、研究者が伯害されたが、周恩来の働きかけにより失脚を免れた。文化大革命終了後の1978年6月に、周培源は北京大学学長となった。76歳と高齢になっていたが、文革での混乱と破壊から北京大学を回復させる努力を行い、1981年に退任した。
愛妻家として有名
周培源は、愛妻家として有名であった。
米国から帰国し清華大学教授となっていた周培源は、1930年のある日経済学部の教授で友人の劉孝錦(刘孝锦)から自宅に招かれた。そこで、劉孝錦は自分の妻の友人であって北平女子師範大学に通っていた王蒂澂の写真を、周培源に見せた。周培源がその写真に興味を示したため、劉孝錦は後日王蒂澂本人を周培源に紹介した。
周培源と王蒂澂は、2年にわたる交際期間を経て、1932年に結婚した。結婚の媒酌人は、当時の清華大学学長であった梅貽琦が務めている。

周夫婦には結婚後2人の娘に恵まれたが、結婚から3年後の1935年に、王蒂澂は結核に罹患し転地を余儀なくされた。周培源は、大変悲しみ不安となって、毎日自転車に乗って清華大学と転地先を往復した。幸いにも転地が功を奏したのか、王蒂澂は結核から徐々に回復し、転地先から戻ることが出来た。
周培源夫婦は、その後も苦楽をともにし、さらに娘2人が生まれた。
妻の王蒂澂は、晩年病気がちとなり、寝たきりに近い状態の時もあったが、周培源は妻・王蒂澂を常に気にかけ、度々ベッドに来て励ました。ところが1993年に、周培源は急に体調を崩し、妻を残して91歳で眠るように亡くなった。妻の王蒂澂は悲嘆に暮れ、これまで61年間の結婚生活を思い出し娘に対し、亡くなった周培源の服のポケットに「培源さん、私はあなたを永遠に愛します(培源,我永远爱你)」というメモを入れるよう頼んだ。
周培源が亡くなって丁度10年後の2009年、王蒂澂は北京協和医院で亡くなった。99歳であった。
参考資料
・中国科协之声HP 周培源:我国近代力学和理论物理奠基人之 https://baijiahao.baidu.com/s?id=1771399122886362300&wfr=spider&for=pc
・North Dakota State Unv. HP P'ei-Yuan Chou https://www.genealogy.math.ndsu.nodak.edu/id.php?id=136954
・冉冉体育圈 北大校长周培源:60年只爱过一人,每天对着校花妻子说“我爱你”
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1822750773037059258&wfr=spider&for=pc