はじめに
厲綏之(厉绥之、Li Suizhi、1885年-1975年)は、日本の金沢医学専門学校に留学し、現在の浙江大学医学院の創設や杭州赤十字会の創設に尽力し、中国西洋医学教育の父と呼ばれた。

生い立ちと教育
厲綏之(厉绥之、Li Suizhi)は1885年に、浙江省杭州市に生まれた。先祖には清代の著名な文学者・厲鹗(1692年〜1752年)がいて、父・厲良玉(1865年〜1940年)も金石学者と呼ばれた中国古代の文字や文章を研究する学者であった。
14歳となった1899年に杭州にあった求是書院(現在の浙江大学)に入って勉学に励み、1902年に官費留学生の資格を得て日本に留学した。
日本に留学
日本では、東京牛込にあった宏文学院に入り、日本語の習得に努めた。宏文学院は、清朝政府が派遣留学生の教育を日本政府に依頼したことにより設置された学校で、初代校長の嘉納治五郎が民家を借りて日本語や数学・理科・体操などの教科を教えた。

厲綏之が宏文学院に学んだ時期に、後に作家となる魯迅(周樹人)も同校で学んでいた。魯迅は、クラスメイトであった厲綏之らに対し、「自分は医師になる勉強をしようと思うが、それは金儲けのためではない。我々は民の血税で留学しているのだから、医療で中国の労働者や民衆に恩返しをしたい」と主張していた。この魯迅の主張に厲綏之は深く共鳴し、自らも医師となることを決意した。
親友・韓清泉
宏文学院で学んでいる時に知り合い、その後同じく医師を志した親友に、韓清泉(韩清泉)がいる。韓清泉は、清朝末期の1885年頃に浙江省の寧波に生まれた。1899年から1902年まで浙江省の杭州にあった「養正書塾(养正书塾)」で勉学に励み、官費留学試験に合格して日本に留学した。
韓清泉は、宏文学院で同じ浙江省出身者として厲綏之や魯迅と親しく交わり、厲綏之と同じく魯迅の主張に共鳴して医師となる決意を固めた。

金沢医学専門学校で医学を学ぶ
2年後の1904年に、厲綏之と韓清泉は石川県の金沢医学専門学校(現在の金沢大学医学部)に入学した。一方、魯迅は同じ1904年に仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学している。
当時の日本の医学教育はドイツ医学を範しており、ドイツ語の習得が必須であった。厲綏之や韓清泉は日本語だけではなくドイツ語も習得する必要があったが、友人たちと切磋琢磨しながら勉学に励んだ。
学校での授業で厲綏之らを驚かせたのは、人体解剖の実習であった。また温暖な浙江省で育った厲綏之らを悩ませたのは、北国金沢の寒さと雪であった。しかし厲綏之らは、「不為良相、当為良医(優れた政治家になれずとも、優れた医師になって国を救う)」をモットーとして医学の習得に励み、同医学専門学校を優秀な成績で卒業して帰国した。
浙江医学専門学校の設立
帰国した厲綏之や韓清泉らは、中国内では欧米のキリスト教団体が設立した病院が主体となっていることに強い危機感を抱き、杭州市内に「浙江病院」を設立した。
辛亥革命後の1912年に、英国聖教会が設立し杭州市内にあった広済医学堂が新政府に接収された。厲綏之や韓清泉らは新政府に働きかけ、自分たちも資金集めを行って、広済医学堂を基礎として浙江医学専門学校(浙江医学专门学校)を設立した。初代校長には韓清泉が就任した。現在、国内トップクラスの医学高等教育機関となっている浙江大学医学院の源流の一つである。
なお、初代校長となった韓清泉は、1917年まで校長を務めたが、病を得て退任し、1921年に亡くなった。享年36歳であった。
中国医学振興への貢献
厲綏之は、欧米や日本から見て後進的であった中国医学の振興を目指して様々な活動を行った。
厲綏之は1915年に、やはり日本の金沢医学専門学校に留学し北京医学専門学校(現在の北京大学医学部)の校長を務めていた湯爾和らとともに、「中華民国医薬学会(中华民国医药学会)」を、上海市に立ち上げた。初代の会長には湯爾和が就任した。
この学会活動の一環として、機関紙「中華民国医薬学会会報」などの発行も開始した。
中国軍に関与し軍医などを務めた厲綏之は、戦場で負傷した兵士の治療や処置に深い関心を有していて、1924年に杭州赤十字会を設立し、初代会長となった。当時は、辛亥革命後の混乱期であり、中国各地方の軍閥が覇を競って戦乱が絶えなかった。1927年に行われた戦争の際には杭州市に臨時医院が設置され、厲綏之が院長となって、傷病兵の医療処置を指揮した。
1937年に日中戦争が始まり、浙江省杭州もその戦禍から免れなかったが、厲綏之は杭州とその近辺にとどまって、赤十字会の活動を中心として、兵士や民間人の負傷者の医療処置に当たった。
新中国建国後
1945年に日本が敗北し中国大陸にいた日本軍が撤退すると、国民党と中国共産党による国共内戦が始まった。厲綏之は、政治闘争からは一線を画し、一貫して人道主義に立つ「愛国民主人士」としての立場を貫いた。最終的に中国共産党が勝利し、蒋介石らが台湾に撤退したのちも、厲綏之は杭州に残った。
中華人民共和国が建国されると、新政府は西洋医学だけではなく伝統的な漢方や鍼灸などの中医学も重視していく方針を打ち出した。厲綏之はそれ以前から西洋医学と東洋医学の融合(中西医結合)を提唱し実践していて、その範となった。
文化大革命での迫害
1966年に文化大革命が開始されると、厲綏之とその一族は、凄惨な迫害を受けた。医師という知識階級であったこと、日本への留学経験があったこと、西洋医学の学問的な権威であったことなどから、ブルジョア的・反革命的と糾弾された。
実弟や医師であった長男は迫害の末に命を落とし、やはり医師であった娘夫婦も迫害され、監禁されたり、重傷を負ったりした。
厲綏之は、文化大革命が終了する1年前の1975年に、上海で病没した。
参考資料
・教育在线HP 百年传承 造福百姓——浙江大学医学院的精神财富
https://news.eol.cn/dongtai/202206/t20220601_2229503.shtml


