はじめに
柴継傑(柴继杰、1966年~)西湖大学教授は、植物自然免疫の解明で成果を挙げ、共同研究者であった周倹民とともに、2023年に未来科学大賞生命科学賞を受賞した。

生い立ちと教育
柴継傑(柴继杰、Jijie Chai)は、中国東北部の遼寧省丹東に生まれた。丹東は遼寧省南部に位置し、南西に大連や鞍山があり、南東は鴨緑江を隔てて北朝鮮と接している。
生家は中国の少数民族の一つである満州族であり、父親は当時高収入が得られたタバコ関連の仕事をしていて、息子に後を継がせようとした。しかし、柴継傑はそれを断って、高等教育を受けることを望んだ。
柴継傑は、遼寧省にあった大連軽工業学院(大连轻工业学院、現在の大連工業大学)に入学し、パルプ・製紙技術を専攻して、1987年に学士学位を取得して同校を卒業した。卒業後は実家のある丹東に戻り、鴨緑江造紙という会社の技師になった。柴継傑にとって、工場で働くのは耐えがたいことではなかったが、これが自分の望んだ人生かという自問自答の日が続いた。
そんな時期に、休暇を取って北京を訪問した際に、北京の街を疾走する車、道路高架が続く街並みなどを見て、言い様のない感動を覚え、このまま丹東で生涯を終わりたくないと考えた。
高等教育に再度チャレンジ
丹東に帰った柴継傑は、北京での想いを胸に高等教育にチャレンジすべく、工場で働きつつ大学院への進学を夢見た。目指したのは、中国石油化工股份有限公司という国営会社が北京に設置していた石油化工科学研究院である。中国では、学部教育は大学でしか認めらていないが、大学院教育は中国科学院などの研究機関でも実施されており、その一つがこの石油化工科学研究院であった。
柴継傑は、1991年に同研究院に無事入所した。折角会社に就職し給与を貰っているのにもったいないとの意見を述べた家族や友人もいたが、実際入所してみると大学院生であっても授業料は免除され、その上に生活費が支給されたため、結果として丹東に務めていたときより収入が多いということになった。
柴継傑は1994年に同研究院を卒業して修士学位を取得すると、更なる高みを目指してやはり北京にあった中国協和医科大学(現在の北京協和医学院)に入学した。この医学院は、ロックフェラー財団の援助で設置され、北京大学の医学部などと並ぶ中国最高峰の医学高等教育機関である。
柴継傑は、1997年に中国協和医科大学から博士学位を取得し、北京にある中国科学院生物物理研究所に入所してポスドク研究を行った。
ポスドクで米国へ
生物物理研究所で働くうちに、柴継傑は米国で研究したいという想いを抱くようになった。柴継傑が目を付けたのは、当時米国で活躍していた施一公(Yigong Shi)である。
施一公は1967年生まれで柴継傑より1歳若いが、清華大学を卒業後に米国に渡り、ジョンズ・ホプキンス大学で博士学位取得の後、1998年にプリンストン大学分子生物学科の助教授(Assistant Professor)に就任し、自らの研究室を立ち上げようとしていた。
柴継傑は、自分を研究室に雇って貰うべく、施一公に直接手紙を出した。施一公は、工場の技術者をしていたという柴継傑のバックグラウンドに興味を持ち、わざわざ米国から北京に国際電話をして、ポスドク研究員として採用するかどうかをインタビューした。
無事にポスドク研究員として施一公に採用された柴継傑は、米国に渡って施一公の元に到着したが、当時の米中の科学レベルは全く違っていた。柴継傑は、英語や生物学などの基礎知識を施一公に徹底的に仕込まれた。
北京生命科学研究所へ
施一公のポスドクを約5年間務め、生物学研究での自信を付けた柴継傑は、2004年に帰国して、北京生命科学研究所(National Institute of Biological Sciences,Beijing)のPI(Principal Investigator、研究責任者)となった。
北京生命科学研究所は、北京市人民政府が中心となり、米国流のPI制度を導入し世界トップクラスの研究成果を目指して、2003年に新設された。比較的小規模な研究所であるが、所長はシャオドン・ワン(王暁東)元テキサス大学教授、副所長は邵峰 (Feng Shao)といずれも著名な研究者である。
植物の対病原性研究
柴継傑は、同じ時期に米国から帰国し北京生命化学研究のPIとなった周倹民と出会った。柴継傑と周倹民のそれぞれの研究室は、北京生命科学研究所の4階建ての建物の同じ2階にあった。その後現在まで、2人は共同研究を続け、多くの研究成果を挙げることになった。

柴継傑は、周倹民と植物の対病原性研究に取り組んだ。彼らは、植物の持つ自己免疫、つまり植物が本来的に持っていて対病原性を有するタンパク質に着目し、このタンパク質がどのような機序で対病原性を発揮するかを研究した。
柴継傑らは実験を積み重ね、「おとりモデル」と彼らが呼んだタンパク質の作用機序の学説を作り上げ、2007年に専門誌に発表したが、この学説は当時の学会の主流であったものと大きく違っていたため、当時の学会の反応は極めて冷淡なものであった。
柴継傑らは、学会の反応に大きな不満を持ち、また落胆を覚えたが、一つの研究結果だけでは通用せず一連の結果を受けて学説が変わると自らを励ましつつ、実験を続行した。
研究進捗の鍵は、以外にも植物関連ではなく昆虫細胞を用いることであった。彼らは昆虫細胞を使用して、植物対病原性タンパク質を発現させることに成功した。これにより、植物細胞での作用機序がより強くなり、研究が大きく進展した。
柴継傑らは、植物受容体キナーゼのリガンド認識と活性化に関する構造的考察と題する論文を学会誌に発表した。その後も研究は続き、対病原性タンパク質の様々な状態について明確化するとともに、カルシウムイオンチャンネルとの関係などについて次々と論文を発表した。
未来科学大賞を受賞
柴継傑と周倹民は、2023年に未来科学大賞生命科学賞を共同で受賞した。受賞理由は、「植物の病気や害虫に抵抗する対病原体の発見と、その機構・機序の解明において、先駆的な研究を行い、植物自然免疫の解明に先駆的な貢献を行った」というものである。

未来科学大賞は、香港を拠点とする未来科学賞財団が中国における優れた業績を表彰することを目的として2016年に創設した賞であり、生命科学、物質科学、数学・計算機科学の3分野である。柴継傑の恩師である施一公も2017年に、未来科学大賞の生物科学賞を受賞している。
フンボルト教授を経て西湖大学へ
2009年にプリンストン大学での恩師である施一公が米国から帰国し、清華大学理学部の副部長に就任したことに合わせ、柴継傑も清華大学に移動して同大学教授に就任した。
さらに2017年にフンボルト賞を受賞し、フンボルト教授としてドイツの研究所で研究する機会を得た。
フンボルト賞とはドイツのアレキサンダー・フォン・フンボルト財団が授与する賞であり、このフンボルト賞を受賞した研究者は、フンボルト教授と呼ばれてドイツに招聘され、ドイツ国内での研究を助成される。
柴継傑は、ドイツ東部のミュンヒェベルクにあるマックス・プランク植物育種学研究所に赴き、そこで周倹民と連絡を取りつつ、植物自然免疫の研究を続けた。

柴継傑は2023年に、ドイツの研究所での研究を終えて帰国し、恩師・施一公が学長を務める西湖大学の教授に就任している。
参考資料
・西湖大学HP 从造纸厂走出的顶尖科学家|西湖大学柴继杰获未来科学大奖
https://www.westlake.edu.cn/news_events/westlakenews/people/202308/t20230816_30957.shtml
・新京報HP 未来科学大奖获得者柴继杰:从造纸厂技术员到顶尖科学家 https://baijiahao.baidu.com/s?id=1774896579951485940&wfr=spider&for=pc
・澎湃新聞HP 2023未来科学大奖揭晓:柴继杰、周俭民获生命科学奖
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1774351897127957380&wfr=spider&for=pc