はじめに

 施一公(1967年~)西湖大学学長は、アポトーシスと膜タンパクの研究で成果を挙げ、2017年に未来科学大賞生命科学賞を受賞している。

施一公の写真
施一公・西湖大学学長 百度HPより

生まれた家庭と生い立ち

 施一公(Yigong Shi)は、1966年に河南省の省都である鄭州市に生まれた。

 父方の祖父・施平は、1911年に雲南省で生まれた革命家・軍人であり、共産党の幹部を務めた。2023年11月には112歳の誕生日を祝ったとのことで、現在も存命中である。

 父・施懐琳は浙江省出身でハルビン工業大学を卒業し、母・姜小英は江蘇省出身で北京鉱業学院を卒業した。2人は、河南省の電力工業局で知り合い結婚した。2人の間には男2人女2人の4人の子供がいて、施一公は末っ子であった。 

施一公一家の写真
施一家の写真 後列中央が父・施懐琳、後列左が母・姜小英
前列右が施一公  百度HPより引用

文革で両親の下放に従う

 施一公が生まれた1966年に、文化大革命が始まった。父は当時の社会的な空気を汲んで、「一心為公:一心に公に尽くす」から、子の名前を「一公」と名付けた。

 祖父・施平は、走資派とのレッテルを貼られて拷問を受け、4年の間投獄された。施一公が2歳半となった1969年末に、今度は両親が河南省の小郭庄という僻地に下放された。家族6人で小郭庄に向かい、家としてあてがわれたのは牛舎として使っていた建物であり、強い臭いに悩まされた。

 父は、ハルビン工業大学を出た知識人であったが、非常に器用な人で、農作業をこなし、また床屋の役割を買って出た。大工仕事や料理も得意であった。家族が出来るだけ快適に過ごせるよう、牛舎の改装も行った。さらに、小郭庄では数少ないインテリであったため、子供たちに数学や物理も教えた。

 この様に父は、土地の人から信頼され尊敬され、1972年に小郭庄から一家でより大きな町である駐馬点(驻马店)の工業局に両親が転勤となった際、ほとんどの村人が送りに来てくれた。 

数学コンテストで好成績を収め、清華大学へ

 施一公が10歳となった1976年末に文化大革命が終了し、翌1977年に大学統一入試の高考が復活すると、父は受験適齢期であった長姉や従兄弟などに数学、物理学、化学をしっかりと勉強するように勧め、自ら方程式や熱力学などを彼らに教えた。それを見て施一公も勉学に目覚めていった。

 父は、ようやく下放から解放されて、河南省鄭州市に戻り、鄭州工業大学で教鞭を取ると共に工場にも勤務した。

 施一公は、河南省鄭州の名門中学である河南実験中学に入学し、勉強に励んだ。卒業間近となった1984年に、施一公は全中国数学コンテストで、見事河南省の一位となった。これにより、施一公は清華大学入学の推薦を得ること(保送生)となった。
 父は大いに喜んでくれたが、すぐに調子に乗ってしまうという子・施一公の短所を良く知っていることもあり、軽く褒めた上で傲慢にならないように諭した。

尊敬する父の事故死

 施一公は、1985年に北京に出て、清華大学の生物科学技術学科に入学した。

 施一公が清華大学で勉学中の1987年9月、自転車に乗っていた父はタクシーにはねられた。タクシーの運転手は、バイタルサインがあるものの昏睡状態だった父を病院に運んだ。対応に当たった救急外来の医師は、保証金として500元を事前に払わなければ処置できない、と運転手に告げた。運転手は、4時間半かかって漸く500元を工面して病院に戻ってきたが、その時には父は既に亡くなっていた。

 父の訃報を聞いた施一公は大きな衝撃を受け、夜も眠れず真夜中に清華大学の近くにある円明園に駆け込み、悲しみと怒りをあらわにした。救急外来の医師に復讐を考えたりした。

 しかし、そのような怒りは徐々に収まり、「中国のような大きな国では非常に多くの人が苦しんでおり、父がそうであったように、隣人や周囲の恵まれない人を助ける努力をし、この様な悲劇が出来るだけ起こらないようにすべき」と考えるようになった。

米国へ留学

 施一公は1989年7月、学士の学位を取得して清華大学を卒業した。その後、鄭州畜牧獣医大学に短期間勤務の後、1990年に米国に留学した。

 米国では、まずアイオワ州立大学に3か月間滞在した。米国に到着した当初、施一公は英会話が全く理解できなかった。このため、一日25個の単語を覚えることを自らに課した。

 施一公は、その後東海岸のメリーランド州にあるジョンズ・ホプキンス大学医学部に入学し、1995年に同大学から分子生物物理学の博士学位を取得した。その後、ニューヨーク市にあるメモリアルスローンケタリングがんセンターにポスドクとして入った。

 施一公は1998年に、プリンストン大学分子生物学科の助教授(Assistant Professor)に就任した。その後2001年に准教授(Associate Professor)に、2003年には教授に昇進した。37歳というプリンストン大学全体でも極めて若い教授の誕生であった。この時期に施一公は米国籍を獲得している。

アポトーシスと膜タンパクの研究で成果

 施一公は、主に構造生物学と生化学の手法を使用して、アポトーシスの分子機構、重要な膜タンパク質、細胞内の生物学的高分子機械の構造と機能を研究した。そして、真核生物のメッセンジャーRNAスプライセオソームの重要な複合体の構造を解析し、活性部位と分子レベルの機構を明らかにした。

 施一公は2010年に、これらの成果により「レイモンド&ビバリー・サックラー国際生物物理学賞」を受賞した。受賞理由は、「アポトーシス(プログラムされた細胞死)の分子機構の根底にあるタンパク質相互作用の研究への多大な貢献に対して(For his seminal contributions to the study of protein interactions underlying molecular mechanisms of apoptosis (programmed cell death))」であった。
 同賞は2006年に、イスラエルのサックラー家の寄付によって設立され、独創的で傑出した成果を挙げた45歳以下の若手研究者に贈られるものであり、中国系研究者としては翌2011年にシャオウェイ・チュアン(Xiaowei Zhuang、庄小威)ハーバード大学教授が、2015年には顔寧(颜宁、Yan Ning)現深圳医学科学院院長が、それぞれ受賞している。ちなみに顔寧は、施一公の清華大学での教え子の一人である。

施一公の教え子・顔寧の写真
施一公の教え子・顔寧深圳医学科学院院長
百度HPより引用

 施一公は2014年に、グレゴリー・アミノフ賞を受賞した。受賞理由は、「プログラムされた細胞死を制御するタンパク質およびタンパク質複合体の画期的な結晶学的研究に対して:for his groundbreaking crystallographic studies of proteins and protein complexes that regulate programmed cell death」であった。
 グレゴリー・アミノフ賞(Gregori Aminoff Prize)は、スウェーデン王立科学アカデミーによって顕彰される結晶学および関連分野の賞であり、スウェーデンの鉱物学者Gregori Aminoffにちなんで1979年に設立された。中国系の科学者では2005年のホークァン・マオ(Ho-kuwan Mao、毛河光、1941年~)らが、日本人の科学者では2007年の飯島澄男らが、それぞれ受賞している。

 さらに施一公は2017年に、未来科学大賞の生物科学賞を受賞した。
 未来科学大賞は、香港を拠点とする未来科学賞財団が中国における優れた業績を表彰することを目的として2016年に創設した賞であり、生命科学、物質科学、数学・計算機科学の3分野である。

帰国して母校の清華大学の教授に

 施一公はプリンストン大学教授であった2007年に、母校の清華大学生物学科の教授を兼務した。そして、2009年にプリンストン大学を辞任して帰国し、フルタイムの職員として清華大学の生物学科の主任で理学部副部長に就任した。

 丁度この頃、施一公にはハワードヒューズ財団から研究員に採用する旨伝えられていた。同研究所は、米国の実業家ハワード・ヒューズによって1953年に設立された非営利の医学研究機関である。同研究所のInvestigator Programは、トップクラスの研究者に対し、大学等に在籍のまま同研究所の研究員として雇用し、最低5年間にわたり研究資金を提供する。
 この時には、プリンストン大学での研究継続が前提となっていた。施一公は、ハワードヒューズ財団研究員の話を蹴って、母校清華大学への帰国を決心した。

中国の科学技術システムを批判

 大きな希望を持って帰国した施一公であったが、当時の中国の科学技術界は彼にとって必ずしも満足できるものではなかった。

 施一公は帰国後の2010年9月に、友人で北京大学生命科学院長の饒毅(饶毅、Yi Rao、現在は首都医科大学学長)との連名でサイエンス誌に記事を投稿し、中国の科学研究費配分制度と科学研究文化を批判した。

饒毅の写真
饒毅・首都医科大学学長 百度HPより引用


 同記事で両氏は、中国の大型の研究開発プロジェクトでは、学識経験や研究能力の優劣ではなく関連機関の職員と学閥的な科学者が決定権を有していて人脈優先となっており、海外留学から帰国したばかりの若い学者の多くは精力を人脈作りのために投入せざるを得ず、研究、学生指導、学会参加に専念できなくなっていると指摘した。
 そして、研究費の配分制度に存在している問題を認識し、中国の新しい創造力を有効に発揮できるよう改善すべきと呼びかけた。
 この記事は中国国内のネットなどで広く伝えられ、多大な反響を呼んだ。

 翌2011年12月、この記事が遠因と思われる事件が発生した。2011年の中国科学院の院士選考で、前評判の高かった施一公と饒毅がいずれも選出されなかったのである。
 当事者の一人である饒毅は直ぐにブログをネットに投稿し、「中国科学院は院士の選考において、学術レベル、年齢、科学的貢献ではなく、一部の人々に頭を下げる時間の長さを重視しており、今後は院士に当選することを考えない」と述べた。
 もう一方の当事者の施一公は沈黙を保ったが、一部のメディアは中国科学院の見解として施一公が選出されなかったのは彼が米国国籍を有しているからであると伝えた。施一公は、同年米国国籍を放棄して、中国国籍に復活した。
 施一公は、次の中国科学院院士の選出時期であった2013年に、無事院士に選出された。

西湖大学学長に就任

 施一公は2014年に清華大学の学長補佐に、翌2015年に副学長に就任した。そして、2018年には新しく設立された西湖大学の学長を務めている。

 西湖大学は、浙江省の杭州市に新たに設置された大学である。まず2015年に、浙江西湖高等研究院が設置されて、施一公がその院長となった。その後準備作業が進められ、2018年に国務院教育部の認可を経て、西湖大学が正式に設立された。施一公は同大学の初代学長に就任した。

西湖大学の正門の写真
西湖大学と浙江西湖高等研究院の正門 百度HPより引用

趣味は走ること

 私的な生活での施一公の趣味はランニングである。河南実験中学での高校生時代には800m、1,500m、3,000mの選手であった。清華大学には中距離の同好会がなかったので中距離の競歩に転校し、当時の清華大学レコードを樹立している。

 施一公は、「ランニングやスポーツの利点は、体を鍛えて仕事の効率を高めるだけでなく、精神を磨くことにある。身体運動は自己改善の精神であり、生涯を通じて有益となるライフスタイルである 」としている。

 2023年に開催された第19回杭州アジア大会では、施一公は聖火のランナーとして無事役目を果たしている。また、同年11月に開催された上海マラソンでは、施一公は初めてのフルマラソンを3時間34分56秒で完走した。

上海マラソンを走る施一公 百度HPより引用

参考資料

・施一公祖父、新四军老战士施平,或成亚洲最年长男寿星https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MjM5MjE5MDcyMg==&mid=2651105492&idx=2&sn=86ad853f0d74d74700f9579de4800f0f&chksm=bd5a10b98a2d99afa6a4c2964c39f16dd690763b60a82f1c6742429266ed9f463d7ad0165b5a&scene=27
・捜狐HP 施一公:过去48年,我唯一崇拜的人是我的父亲 https://www.sohu.com/a/604602920_121124795
・清華大学HP 施一公 中国科学院院士 https://www.tsinghua.edu.cn/info/1167/93867.htm
・Tel Aviv U HP Past Laureates of the Raymond and Beverly Sackler International Prize in Biophysics https://english.tau.ac.il/sackler_prize_in_biophysics_past_laureates
・Science HP   China's Research Culture  https://www.science.org/doi/10.1126/science.1196916
・The Royal Swedish Academy of Sciences Gregori Aminoff Prize 2014
https://www.kva.se/en/prize-laureate/yigong-shi-2/
・未来科学大賞HP 2017生命科学奖获奖人 施一公
https://www.futureprize.org/cn/laureates/detail/5.html