はじめに

 陳建功(陈建功)は、三度にわたり日本に留学し、東北帝国大学で外国人初めてとなる博士学位を取得し。その後中国に帰国して、後輩の蘇歩青と共に「陳蘇学派」を形成して母国の数学研究・教育に貢献した。

陳建功の肖像写真
陳建功 百度HPより引用

生い立ちと教育

 陳建功(陈建功、Jiangong Chen)は、浙江省の紹興に生まれた。紹興は、人口約500万人の都市であり、紹興酒や文人・魯迅の故郷としても有名である。陳建功の父親は、紹興の同善局という小さな団体の職員であり、母は専業主婦で七人の子供がいた。陳建功は長男であり、下は全て妹であった。

 子沢山のゆえに家は貧しかったが、私塾や小学校に通い、勉学に励んだ。16歳となった1909年に、陳建功は紹興府中学堂に入学したが、その頃日本から帰国した魯迅が教鞭を取っていたという。

 陳建功は翌1910年に、浙江省杭州にあった浙江两级师范学堂(現在の杭州師範大学)に入学した。同校で陳建功は、数学に強い関心を持つようになった。 

日本への留学

 1913年に浙江两级师范学堂を卒業した陳建功は、就職して家計を助けるか、さらに勉強するかの選択を迫られたが、家族の理解と政府の資金援助を得て、日本への留学を決断した。

 日本では、政府の援助を受ける際に申し出た染色技術の習得のため、1914年に東京高等工業学校(その後東京工業大学を経て現在の東京科学大学)に入学した。しかし、師範学堂での数学修得への想いは棄てがたく、当時夜間授業を行っていた東京物理学校(現在の東京理科大学)にも入学し数学を学んだ。

 陳建功は、1918年に東京高等工業学校を、1919年に東京物理学校をそれぞれ卒業し、中国に帰国した。中国では、浙江甲种工业学校の教員として、日本で学んだ染色技術について教鞭を執った。

 しかし数学習得への想いは棄てがたく、陳建功は2年後の1920年に再び日本に赴き、仙台の東北帝国大学の数学科に入学し、近代数学研究を開始した。長い間研鑽を積んだこともあって、陳建功の数学のレベルは高く、同大学入学一年目に東北数学雑誌に発表した論文「Some theorems on infinite products」は、中国人が外国で発表した最初の現代数学論文と言われている。

 陳建功は1923年に、東北帝国大学を卒業して帰国し、浙江公立工業専門学校(後の浙江大学工学部)に勤務し、翌1924年に湖北省にあった武昌大学に転任した。

 陳建功は、1926年に三度目となる日本への留学を決意し、東北帝国大学大学院に入学した。同大学では、藤原松三郎教授に師事して三角級数論を研究した。大学院在学中に数十篇に及ぶ論文を発表している。
 陳建功は、1929年に同大学より博士の学位を取得した。当時の日本では外国人が博士を取得した例がなく、陳建功が最初であったため、新聞でも大きく報じられた。なお、同じ時期に東北帝国大学数学科に学んだ数学者に蘇歩青がいる。蘇歩青は陳建功の9歳年下であり、1924年に東北帝国大学に入学し、1931年に同大学から博士学位を取得している。従って、蘇歩青は陳建功に次いで2番目の外国人博士取得者である。
 また、恩師の藤原松三郎教授の薦めによって、在学中の研究成果をまとめた「三角級数論(1928年)」が岩波書店から出版された。この書籍は、当時の三角級数研究における文献として国際的にも優れたものであった。現在その書籍は北京の国家博物館に収蔵されているという。

蘇歩青の銅像
復旦大学にある蘇歩青の像

帰国して浙江大学教授に

 1929年に帰国した陳建功は、浙江省杭州にあった国立浙江大学(現在の浙江大学)に奉職し、数学科の学科長となった。

 2年後の1931年に、東北帝国大学の後輩であった蘇歩青が博士学位を取得したことを聞き、陳建功は蘇歩青を浙江大学の教授に呼び寄せた。以降、陳建功と蘇歩青は、20年以上にわたって緊密に協力し、中国のために多くの人材を育成し、著名な「陳蘇学派」を形成した。

 1937年7月に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発すると、浙江大学は日本軍の侵略を避けて大陸の西に移動することとなった。浙江大学は、当初浙江省内の山間部で難を逃れようとしたがかなわず、年末には江西省南昌市吉安に、翌1938年7月にはさらに西に位置する広西チワン族自治区の宜山(現在の河池市)に、1939年12月には貴州省遵義市に疎開している。
 この間、陳建功は、大学の幹部の一人として、教職員や学生、その家族などを引率するとともに、教材や実験道具、家財道具などを運ぶという苦難に遭遇した。この間の逃避行の全距離は約2,500キロメートルに及んだと言われており、日本列島の長さ約3,000キロメートルにほぼ匹敵する想像を絶する距離である。

院系調整で復旦大学へ

 日本の敗戦に伴い日本軍は撤収し、浙江大学は1946年9月に漸く元の浙江省杭州に戻った。陳建功は翌1947年に米国プリンストン高等研究所から研究員として招聘され米国に赴いたが、1年後の1948年には浙江大学に戻った。

 新中国建国後の1952年に、ソ連の教育体制を参考とした院系調整(大学・学部・学科の再編)政策が中国全土の大学で実施され、浙江大学の数学科は上海の復旦大学に統合されたため、陳建功も復旦大学に移った。

晩年

 1955年に中国科学院の学部委員制度が導入されると、陳建功は蘇歩青らとともに、学部委員(現在の中国科学院院士)となった。

 1958年に杭州大学(現在は浙江大学の一部となっている)が設立されると、陳建功は招聘されて副学長となった。

 1971年、陳建功は健康状態を損ない、78歳の生涯を閉じた。

参考資料

・澎湃HP 之江同心·先贤之光|陈建功:执着追求 以数学报效祖国
https://m.thepaper.cn/baijiahao_26769532
・東北大学理学部数学科HP 中国・韓国の数学の発展に尽くした卒業 留学生陳建功氏についてhttp://www.math.tohoku.ac.jp/about/alumnus.html