中国のライフサイエンスの歴史と現状について、日本国際貿易促進協会が旬刊誌として発行している「国際貿易」の2024年1月23日号に投稿した記事を、一部修正の上で紹介する。
中国のライフサイエンスの歴史
中国は古代より科学技術の先進地域であり、ライフサイエンスの関係でも例えば中国医学(漢方)は世界最先端にあった。しかし、王朝変遷が続く中で科学技術における先進性は徐々に失われ、近世に至りルネサンスを経験した西欧に大きな後れを取ることになった。
アヘン戦争での敗北やその後の列強の侵略を受けて、中国は科学技術面での後れを痛感し、国内での科学研究を強化するとともに、留学生などを欧米や日本に派遣した。ライフサイエンスのベースを支える生物学などもその対象であり、植物学の鐘観光や動物学の秉志などが出て、中国のレベルは上昇した。
東側陣営でルイセンコ論争の影響を受ける
第二次大戦後に中華人民共和国が建国されると、中国はソ連と共に東側陣営に属したことにより、中国のライフサイエンスは再び大きく停滞した。
一つ目の理由は、ソ連におけるライフサイエンスの影響である。帝政ロシアのライフサイエンスは世界最先端であり、例えば消化腺の研究で1904年にノーベル賞を受賞したパブロフや、免疫の研究で1908年にノーベル賞を受賞したメチニコフなどを輩出している。
しかし、革命後のソ連では宇宙開発や原子力開発で優れた成果を挙げたが、ライフサイエンスは停滞した。その原因となったのが、1934年に農学者・ルイセンコがメンデルの遺伝学を否定する学説を発表し、これを時の指導者・スターリンが支持したことである。
ルイセンコの学説に異を唱えた多くの科学者が投獄、流刑、処刑され、神経生理学や細胞生物学その他の研究はスターリンが死去するまで事実上破壊された。これ以降ソ連のライフサイエンスは大きく後れ、その影響は同じ東側陣営にあった中国にも及んだ。
分子生物学などの潮流に乗り遅れる
二つ目の理由は、西側におけるライフサイエンスの革命的な発展である。
米国人のワトソンと英国人のクリックは1953年に、生物の遺伝を司るDNAの二重らせん構造を発見した。これにより、従来の分類学などを中心とした生物学が、物理学や化学的な手法を導入する分子生物学などに大きく変容していった。
中国ではこの時期、東西冷戦の真っ只中にあり、また1966年からは文化大革命が勃発して、西側との学術交流がほとんどなかったことにより、ライフサイエンスの大変革についていけなかった。
ゲノム科学で成果
1976年の文革終了後に、中国政府はライフサイエンスを含む科学技術の後れを痛感し、欧米に追いつくべく努力を続けた。有為な人材を欧米や日本に留学などで送り出し、研鑽を積ませて帰国させ、国内の大学や研究所の高い地位に迎えた。
このため21世紀に入ってからは、中国の基礎生物学、医学、農学などのライフサイエンスは世界的な水準に達しつつある。
しかし、文革終了までの空白期間の挽回は容易ではなく、現在もライフサイエンスでは欧米優位が続いている。
それでも、ライフサイエンスの一部の分野、とりわけ最先端のゲノム科学やゲノム編集の研究は、世界トップレベルの成果を挙げている。
ただ、近年発生したゲノム編集技術によるヒトのベビーの誕生、実験動物における過激とも言える研究など、倫理面での緩さに注意する必要があろう。今後のライフサイエンスでの躍進を期待したい。
参考資料
・中村禎里著「日本のルィセンコ論争【新版】みすず書房 2017年 https://www.msz.co.jp/book/detail/08620/