はじめに

 鐘観光は、大学などの高等教育や外国への留学の経験がないが、清朝末から中華民国の時代に広大な中国で精力的に植物採集を行い、中国の近代植物学の礎を築いた。

钟观光の写真
鐘観光 

生い立ちと教育

 鐘観光(钟观光、しょうかんこう、Kuan Kwang Tsoong)は、1868年に現在の浙江省寧波(にんぽー)市に生まれた。小さい頃から勉学に励み、19歳で科挙の秀才の資格を得た。鐘観光の勤勉な勉学姿勢を示す逸話として、「縛脚秀才」と言う言葉が残っている。幼い鐘観光が、自らの足がぶらぶらして勉学の妨げになることを嫌って座っている椅子に足をくくりつけていたことから、近所の人にからかいを込めて言われたものである。

 しかし、清朝政府の腐敗によって戊戌の変法が失敗したことに憤り、科挙に合格して清朝の官吏となることを断念し、科学の道での救国を志した。
 自然科学の知識不足を補うために、鐘観光は1899年に同郷の親友らと共に科学研究のための結社「四明実学会」を創設し、理化学知識の獲得に努めた。鐘観光らは、徐寿らが設立した上海江南製造総局翻訳館で書籍を購入し、その内容に基づいて理科の実験を行った。酸性の物質を用いる実験なども行ったため、飛び散った酸性の液により衣服に穴があいて、周りの嘲笑を買うこともあったという。

 当時は日清戦争後で、西洋の科学技術を消化した日本を見習うべきとの風潮から、鐘観光は日本語を独学し日本の理化学書を購入して研究した。その甲斐もあって、1900年に上海の浦東にリンを製造する霊光造燐工場を建設し、政府より15年間の特許権を得た。また、翌1901年に上海に科学機械館を設置したり、1903年に科学啓発雑誌「科学世界」を創刊したりしている。その間、鐘観光は日本を訪問し、日本の教育と実業を視察するとともに、蔡元培の知己を得ている。 

植物学への傾倒

 鐘観光は肺を患い1908年に、上海を離れて浙江省杭州の西湖で病気療養した。西湖湖畔は四季を通じて草花が豊かに咲き誇るところであり、鐘観光は植物学の研究に深い興味を持ち、病床で李善蘭らが翻訳した『植物学』などを読むとともに、病気が快方に向かった後も野外で標本を採集した。

 1911年に辛亥革命が起き、旧知の蔡元培が新政府の教育部長となると、鐘観光も教育部参事として政府に招聘された。新政府にいる間、鐘観光は南京や北京の野山を歩き回り、植物採集に没頭した。しかし新政府内で政変があったため、鐘観光は蔡元培と共に下野し、湖南省長沙で師範学校の教師となった。この時期の鐘観光の植物採取活動はすさまじいものであり、福建、広東、広西、雲南、浙江、安徽、湖北、四川、河南、山西、河北など11の省区、さらには長江、黄河、珠江の3大流域を旅して、約15万種にわたる植物の標本を採取した。

 鐘観光は50歳となった1918年に、北京大学で植物学担当の副教授となった。1924年自分で採集した標本をもとに、北京大学に植物標本室を設置した。北京大学の標本は採取地域の広大さや種類の豊富さなどの特徴を有し、現在でも生態分布を研究するための最適なものであると言われている。

 鐘観光は1927年に、北京大学を辞して浙江省杭州の浙江大学に移り、同大学農学部の副教授兼西湖博物館自然部主任となった。浙江大学でも、植物標本室を設置するとともに植物園を設立した。

晩年

 3年後の1930年には浙江大学を辞して、北京の北平研究院植物学研究所の専任研究員となった。すでに還暦を過ぎ62歳となっていたが、植物学への情熱は消えず、植物学の古典を考証して近代的な科学の視点で植物学の著作を行ったり、明の李時珍が1596年に刊行した漢方植物の古典である『本草綱目』に関して54科目、199種類の植物を考証したりした。

 1937年に日中戦争で日本軍が北京を占領したため、鐘観光は書きかけの原稿などを持って北京を逃れ、徒歩で故郷の浙江省寧波まで戻った。北京に残した植物標本は、その後の混乱のため多くが散逸してしまった。さらに1940年7月には、日本軍が寧波に上陸し占領されてしまう。
 鐘観光は、この日本軍占領の中で、同年9月に72歳で亡くなっている。

牧野富太郎との共通点

 鐘観光は、大学を出ておらず、米国等への留学経験もない。このため、奉職した大学などでの地位も低く、高齢になるまで植物学での功績が認められなかった。しかし、膨大な標本採取や多くの著作などに見られるように植物採集にかける情熱は熱く、近代中国の植物学の開拓と発展に大きな貢献をしている。

 日本でも、小学校中退ではあるものの一生涯をかけて日本の植物相の観察研究に没頭した学者に牧野富太郎がいる。牧野富太郎も、学歴がないが故に東京大学などの学者仲間に軽んじられ、助手や講師にしか就くことが出来なかった。それでも、牧野は理学博士号を取得し、94歳で死去した際には学者としての最高栄誉である文化勲章を追贈されている。処遇などは少し違うが、鐘観光は日本の牧野富太郎のような存在であろう。

参考資料

・捜狐HP「青砖黛瓦述大溟往事——钟观光」https://www.sohu.com/a/244808920_741349
・寧波市北侖区政協文史委など「植物学家钟观光」寧波出版社 2018年
・牧野富太郎「牧野富太郎自叙伝 」講談社学術文庫 2004年