中国の大学の党委書記について、日本国際貿易促進協会が旬刊誌として発行している「国際貿易」の2023年3月15日号に投稿した記事を、一部修正の上で紹介する。
党委書記とは
中国には、中国共産党の党委書記(党組書記の場合もある)という肩書きを持つ人達がいる。
日本や西側諸国では聞き慣れない肩書きではあるが、大変重要な役割を持つ人達である。このポストは、行政府だけでなく、大学、研究所、企業など、中国内のあらゆる組織にあり、1949年の中華人民共和国建国以降、中国共産党の指導を確実なものとするために設置された。
今回は大学の党委書記について述べたい。
大学の党委書記
日本を含め米欧の西側諸国の大学では、大学のトップは学長であり、大学の自治を担保するため、時の政権や政党とは一定の距離を持つのが普通である。
中国の大学制度は清朝末期からの歴史を持つが、新中国建国前は学長(中国では校長と呼ぶ)が大きな権限を持つ場合が多く、例えば北京大学の蔡元培学長や清華大学の梅貽琦学長は、それぞれの大学の発展と将来をを背負って活動し、また辛苦も重ねた。
国共内戦で中国共産党が勝利した際、様々な統治体制の支配とともに、既に存在していた大学に中国共産党が進駐することとなった。北京大学の例で見ると、戦前の五・四運動にちなんで1949年5月4日に、北京大学指導委員会を設置している。これが現在の党委の原形であり、5月4日は北京大学の創立記念日となっている。以降中国の大学では、学長はナンバーツゥーとなり、ナンバーワンは党委書記となった。
現在の学長と党委書記の業務分担であるが、学長は大学内での行われる教育や研究の内容に責任を持つのに対し、党委書記は共産党中央からの指導の徹底とともに資金や施設全般の校務に責任を持つ。学長の持つ教育や研究に関しても、資金や施設が重要なファクターであるため、結果として党委書記が絶大な権限を有することになる。
上海交通大学党委書記・鄧旭初
党委書記が当該大学の発展に大きく寄与した例として、上海交通大学の党委副書記、書記を長年にわたって務め、上海交通大学だけではなく大学管理全般の改革者として著名だった鄧旭初(邓旭初)を紹介したい。
鄧旭初は1921年に広東省に生まれ、若くして中国共産党員となって沿岸防衛、国共内戦、朝鮮戦争で活躍した後、1954年から上海交通大学に転じ、党委副書記や書記を歴任した。文化大革命中は批判の対象となったものの、文革終了後の1977年に党委書記に就任し、上海交通大学を舞台として大胆な改革を断行していった。
鄧書記が辣腕を振るった事案として有名なのが、現在の大学本部がある閔行キャンパスの土地取得である。上海交通大学は、清朝末期の南洋公学を起源とする名門大学であるが、新中国建国後の学部再編政策(院系調整)や西安交通大学の分離・独立などにより発展が停滞していた。これを打破するために鄧書記が取った施策が、手狭となった上海市内中心部のキャンパスから、南部にある閔行区への移転の決断である。
当時の閔行区は舗装道路も完備していない辺鄙な場所だったことから、関係する各所に土地取得交渉に通う鄧書記の報道が新聞等に掲載されても、上海市民には鄧書記の意図が容易に理解できなかったという。1987年に閔行キャンパスの利用を開始し、2006年に本部が移転したが、現在同地には上海市紫竹科技園があり、インテルやマイクロソフトなどのグローバル企業や日本のオムロン、花王、ヤマハなどの企業が研究開発拠点を構え、同大学と連携協力を進めている。国の発展政策をうまく生かし、早期に安い土地を確保して周辺を整備して、産学協同により大学を発展させるという鄧書記の先見性が見事に活かされたのである。
鄧書記は、大学管理運営改革の理論でも優れた成果を挙げ、彼のスタッフと共に著作を刊行している。その中でも1984年に刊行した「上海交通大学管理改革初探」は、管理運営の指導書として現在でも読まれている。
鄧旭初は、閔行キャンパスの建設開始から1年後の1986年に、党委書記を退任した。その後も顧問格で後輩達を指導してきたが、85歳となった2006年に、手塩にかけた上海交通大学の閔行キャンパスへの本部移転を見届けて死去した。
ライフサイエンス振興財団理事長・国際科学技術アナリスト
林 幸秀
参考資料
・百度HP 邓旭初 原中国人民志愿军汽车团团长兼政委