はじめに

 ゼナン・バオ(1970年~)スタンフォード大学教授は、人工皮膚(電子皮膚)の研究で成果を挙げている中国系米国人の女性研究者である。2022年のクラリベートアナリティックス社の引用栄誉賞・化学部門を受賞しており、ノーベル化学賞受賞候補者の一人である。

ゼナン・バオの写真
ゼナン・バオ 百度HPより引用

生い立ち

 ゼナン・バオは、1970年に江蘇省南京の学者家庭に生まれた。

 父親の鮑希茂と母親の陳恵蘭は共に名門・南京大学の教授で、父が物理、母が化学専攻であった。母の陳恵蘭は南京大学卒で、配位化学や超分子化学を専攻し、米国の大学で研究を行ったこともある化学者であり、「高等有機化学」という教科書も出版している。

 中国名の「哲南」という名前は、両親が知恵のある子に育ってほしいとの意味を込めて「哲学」の「哲」を取り、もう一字は出生地の「南京」の「南」を取って付けたものだという。

 バオの小さいとき、父・鮑希茂が池の畔でアイスキャンディーを買ってきて、これが水に浮くかどうかと彼女に尋ねた。バオは固体(solid)だから沈むだろうと言うと、父はもう一つ買ってあげるからと言ってそれを池に投げ込んだ。アイスキャンディーがその後浮かんできたときには大変驚き、理由を知りたいと思った。このことが、バオの科学者への道を決めたきっかけとなった。  

南京大学に入学し米国へ留学

 ゼナン・バオは、地元の南京市で基礎教育を終え、1987年に南京大学に入学し、母と同様化学を専攻した。

 バオは、南京大学3年の1990年に米国のイリノイ大学シカゴ校に移り、引き続き化学を専攻した。その半年後には、学部を卒業していないにもかかわらず、彼女の南京大学時代の優秀な成績を評価し、シカゴ大学大学院への入学が許可された。

 シカゴ大学大学院から物質化学で修士号を取得の後、バオは中国系でポリマー化学を専攻する于魯平(Luping Yu)教授を指導教官として博士課程の研究を続行した。現在にも続く彼女のポリマー化学の専攻は、于魯平教授の影響が大きい。バオは、1995年にシカゴ大学より博士号を取得した。

ベル研究所に就職

 博士号を取得したバオは、米国の民間研究機関であるベル研究所に就職した。

 ベル研究所とは、ベル・システム社が1920年代に設立した研究所であり、 ニュージャージー州マレーヒルを本拠地とし、その研究施設は世界中に点在する。ベル研究所は、電話交換機から電話線のカバー、トランジスタまであらゆるものの開発を行ってきた。中国系科学者では、分数量子ホール効果の研究によりノーベル物理学賞を受賞したダニエル・ツィが、1967年から1983年までこのベル研究所に在籍していた。

 ゼナン・バオは、ベル研究所で有機エレクトロニクスの開発チームに所属し、材料開発に没頭した。バオは、ベル研究所に入社直後から、全プラスティック半導体の開発や、有機電界効果トランジスタの開発などで大きな成果を挙げた。
 2000年にサイエンス誌が、世界でブレークスルーの成果を出した10人の研究者にバオを選んだ。2001年には、ベル研究所の傑出研究者に選ばれた。

ヘンドリック・シェーン事件に巻き込まれる

 しかし、ゼナン・バオの研究生活はここで暗転する。ヘンドリック・シェーン事件に巻き込まれたのである。

 ドイツ出身の物理学者ヘンドリック・シェーン(Jan Hendrik Schön)は、ベル研究所で有機物による高温超伝導の分野で画期的な成果を挙げたとされ、将来のノーベル賞候補だと目された。
 ところが、主要業績が捏造であったことが露見して、科学界は一時パニックに陥った。このシェーン事件は、科学者コミュニティにおいて、捏造に対する共著者や共同研究者の責任、科学誌の査読者の責任についての議論を引き起こした。
 結果として、不正がはっきりした論文は取り下げられ、2002年にシェーンはベル研究所から追放されてしまった。

 バオは、このシェーンに研究材料を提供し、論文の共著者となっていたのである。2002年10月サイエンス誌は、シェーンの複数の論文を取り下げたが、その中に次のバオの論文も含まれていた。
・J. H. Schön, H. Meng, Z. Bao, Field-effect modulation of the conductance of single molecules, Science 294, 2138 (2001)
 さらに、2003年3月ネイチャー誌は、シェーンの複数の論文を取り下げたが、そのなかに次のバオの論文も含まれていた。
・Schön, J. H., Meng, H. & Bao, Z. Self-assembled monolayer organic field-effect transistors, Nature 413, 713-716 (2001)

 一方、このシェーン事件を調査するために設置された委員会の調査報告書では、共同研究者は全員不正行為に関わっていなかったとされた。また、関わりの薄かった共著者たちは各々の責任を適切に果たしたことも確認された。

 したがって、バオは2編の論文で取り下げの措置を受けたが、不正行為はなかったということになり、研究人生が絶たれることはなかった。

復活を果たす

 ゼナン・バオは、2004年にベル研究所を退職し、スタンフォード大学の化学科に移った。このスタンフォード大学への転職を契機として、バオは再びアカデミアに華麗な復活を果たした。

 この頃からバオは、人工皮膚(電子皮膚)の研究に注力する。

 バオは2010 年、国際学術誌「Natural Materials」に、小さな圧力を感知できる人工皮膚の研究成果を投稿した。人間の皮膚を模倣するこの種の軟質プラスチック電子センサーデバイス、つまり人工電子皮膚は、義肢、ロボット、携帯電話やコンピューターのタッチスクリーンディスプレイ、自動車の安全装置や医療機器、その他多くの用途での応用が期待される。

 バオは2011年、伸縮可能な太陽電池を開発し、人工皮膚に発電という新たな機能を追加した 。

 バオは2015年、接触をシミュレートする人工皮膚のメカニズムを説明した論文を、サイエンス誌に発表した。

 バオは2017年、伸縮性のあるプラスチック電極に使用できる、優れた導電性と伸縮性を備えたポリマー材料を開発したと「Science Advances」で公表した 。

引用栄誉賞を受賞し、中国系で最もノーベル賞受賞に近い科学者に

 これらの成果を受けて、ゼナン・バオはいくつかの栄誉に輝いた。

 バオは2015年に、人工皮膚の研究でネーチャー誌の年度10人の研究者に選ばれた。

 バオは2017年に、家電製品、エネルギー貯蔵、医学などに応用可能な新しい機能ポリマーの開発により、ロレアル-ユネスコ女性科学賞を受賞した。
 ロレアル・ユネスコ女性科学賞は、フランスの化粧品会社ロレアルとユネスコが科学の進歩に貢献した優れた女性科学者を表彰する賞で、アジア太平洋地区を含めた5つの地域から生命科学と物質科学の分野から交互に毎年5名ずつを選出しており、受賞者には10万ドルの研究助成金が授与される。
 日本からは、かつて岡崎恒子博士、米沢富美子博士らが受賞しており、2019年には川合真紀博士が、2021年には野崎京子博士が受賞している。

 そしてゼナン・バオは2022年に、クラリベートアナリティクス引用栄誉賞・化学分野を受賞した。受賞理由は、「柔軟な『電子皮膚』を含む、有機および高分子電子材料の新しいバイオミメティック・アプリケーションの開発」であった。これによりバオは、ノーベル賞受賞を期待しうる中国系科学者の一人となった。 

参考資料

・Chemical & Engineering News HP TAKING AN EARLY LEAD https://pubsapp.acs.org/cen/women/8012/8012bus4.html?
・"Interview: Great expectations – Chemical Science Blog" https://blogs.rsc.org/sc/2010/08/31/interview-great-expectations/?doing_wp_cron=1685344599.5830130577087402343750
・Stanford HP ”Zhenan Bao” https://profiles.stanford.edu/zhenan-bao
・"Zhenan Bao Receives l'Oreal-UNESCO 2017 Women in Science Intl. Award in 'Physical Sciences'". 12 November 2016. https://c3nano.com/4318-2/
・"Zhenan Bao – Zhenan Bao Research Group at Stanford Chemical Engineering" https://web.archive.org/web/20210514063636/http://baogroup.stanford.edu/index.php/zbao
・クラリベート社のHP  2022年の「クラリベイト引用栄誉賞」受賞者を発表