ソ連との科学技術協力(1950年~)

 ソ連との科学技術協力は、米ソ冷戦という世界情勢の中でソ連を始めとする社会主義国陣営の一員になった新中国にとって、必要不可欠であった。

中ソ友好同盟相互援助条約の締結

 1949年の建国後、中国は米ソ冷戦という世界情勢の中でソ連を始めとする社会主義国陣営の一員になった。

 1945年にソ連は蒋介石率いる国民党政府と中ソ友好同盟条約を締結していたが、これを破棄して新たな中ソ条約を締結することが新中国の重要な課題であった。

 毛沢東とスターリンとの会談や周恩来とミコヤンとの交渉などを経て、1950年2月にモスクワ・クレムリンにおいて「中ソ友好同盟相互援助条約」の調印式が催された。
 この条約によって中国は、ソ連のジェット戦闘機や弾道ミサイルなど近代的な軍備を手に入れることとなった。また、科学技術、教育などあらゆる分野において「ソ連学習」が進められ、高等教育機関の改革や教育カリキュラムの編成などでソ連モデルが取り入れられた。

ソ連との人的交流

 この時期に中国の発展に最も大きく貢献したのは、ソ連との人的交流によるものであった。

 ソ連から哲学、歴史学、経済学、法学、生命科学など多分野の著名学者が中国に訪問し、先端的な学術思想などをもたらした。

 一方、郭沫若中国科学院院長をはじめとする多くの学者たちもソ連を訪問し学術交流を行った。1953年には、銭三強中国科学院副院長を団長とする代表団が3か月をかけてソ連各地を訪問した。代表団は、ソ連科学アカデミー傘下の研究所など98の研究機関や11の大学、さらには工場、鉱山、コルホーズ(集団農場)、博物館、展覧会などを視察した。

専門家の受け入れと留学生の派遣

 1950年4月、ソ連政府が中国の要請を受けて「中国の教育水準を高めるため、ソ連の教授・講師を中国に派遣し、就業させること」を認可したことで、1950年から1957年までに、合計750名のソ連専門家が中国の大学等の教官となった。

 一方中国政府は、1951年から留学生を、1956年から大学教員などをソ連に派遣した。分野や専攻は、原子核物理学、低温物理学、触媒化学、金属工学、物理採鉱学などで、派遣期間は1年から2年間だった。
 1950年から1960年まで、中国の外国への出国者9,294人の約9割はソ連への留学生と教員研修生であり、最も多かったのは1956年の2,085人であったという。
 これらソ連への留学生は、帰国後に中国科学院の各研究所や有力大学の主力研究者となった。

 しかしその後、1960年からの中ソ関係悪化によりその数は激減し、1966年には全員帰国することになった。

参考資料

・JST中国総合研究・さくらサイエンスセンター『中国の科学技術の政策変遷と発展経緯(PDF)』2019年